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ベルイマン、ベルイマン、タルコフスキー…(12.10-12.16)
12月10日(日) 黒沢健一のニューアルバム「Hear Me Now」が届く。 抽選のCDは外れてしまった…。一つでも多くの健一の曲を聞きたかったから残念だな。
ザ・シネマで放送された、チャック・ワークマン監督「映像の魔術師 オーソン・ウェルズ」を見る。 なかなか面白かった。オーソン・ウェルズに関しては、作家としてきちんと意識してみたことがなかったが、なかなかアクの強い部分があるのだな、と改めて知ったような形。 作品としても、学生の頃に何本か見た程度で、かつ印象も薄い作品が多いが、当時の自分には理解できなかった事が多かったのかもしれない。また色々と見直してみたいな。 この映画を見ると、「ハリウッド」と言うシステムに合わなかった悲劇の作家と言う部分も大きかったのかもしれない、などと思った。
そのまま続いて、ザ・シネマで放送された、オーソン・ウェルズ監督「審判」を見る。 フランツ・カフカの小説を原作に映画化した作品だが、これはかなり良かった。 カフカの原作を読んだのは20年以上前なので、ほとんど覚えていないが、時間や空間を自在に操ることが出来る映画ならではの表現で、「不条理文学」と呼ばれるカフカの原作の雰囲気をオーソン・ウェルズなりに映像化した作品だった。 先に見たオーソン・ウェルズに関してのドキュメンタリーで、学生の頃に習作のようにシュールレアリスティックな短編映画を作っていたことが語られていたが、そう言うシュールレアリスティックな演出が、この映画ではすごく効果的に使われている。 ウェルズが意図していたか分からないが、画作り的にもキリコやデルヴォーを思い起こさせるカットもあったりで、美的観点でもなかなか見ごたえのある場面は多い。 他にも、あおりや俯瞰を効果的に使って、アンソニー・ホプキンス演ずるヨーゼフKの不安定な立場や精神状態を映像で表現しているようにも思った。 この「審判」は62年の制作という事だが、その演出がハリウッド的ではないな、と思ったら制作はフランスの会社らしい。かと言ってフランス映画的でもなく、紛れもなく「オーソン・ウェルズの映画」なのだろう。
12月11日(月) ザ・シネマで放送された、イングマール・ベルイマン監督「冬の光」を見る。 いわゆる「神の沈黙三部作」の中の1本だが、宗教についてはイマイチ分からない部分が多いが、これをディスコミュニケーションについて描いた作品だと思うと自分にも分かりやすかった。 主人公の神父の「内なる声」と「外向けの声」との間の断絶、そして「外向けの声」も、小さな町の中での人たちとのコミュニティに届いていないと言う面での断絶。そして、神父の「内なる声」にも耳を傾けない神との断絶。様々な面での「断絶」を描いた映画なのかもしれない。 恐らく、以前では宗教がその断絶を包み込むように人々を繋いでいたが、現代の社会の中では、そう言う事も難しい…と言う側面も描いているのかもしれない。それがこの作品における「神の沈黙」である、と言うことかも…。 それにしても、ベルイマンにしろ、タルコフスキーにしろ、北に住む芸術家は、こういう宗教的な意味合いを絡めて、断絶と絶望を描く傾向が強いのかな…。寒い気候がそうさせるのか…。
12月12日(火) ザ・シネマで放送された、イングマール・ベルイマン監督「処女の泉」を見る。 多分に宗教的な話で、ちょっと自分には分かりづらい映画かな。 途中までは、キリスト教に対する欺瞞を描いている部分もあるのかな、と思ったが、最後は絶望からの救いを描いているようにも思う。 キリスト教的には、土着の信仰=悪であったのだろうが、土着の信仰を信じてる者には、それが善なのだとは思う。 ベルイマンの中に、どういう考えがあったのかは分からないが、若干土着の信仰を忌避していた部分は感じなくもない。まぁ、追い剥ぎやレイプ、殺人は許されることではないけれど。 どこかしら二元論的に見てしまう部分が多い映画だったが、今の世の中そういう二元論では語りきれない世界である、とは思う。
12月13日(水) フジテレビで放送されたFNS歌謡祭で、モーニング娘。のオリジナルメンバー5人が「愛の種」を歌う。 当時ASAYANも見てなかったし、自分は5人時代からのファンというわけではなかったが、5人が歌う姿を見て、何故か涙がこぼれてきた。 当然、モーニング娘。に対する思いが溢れ出たと言う部分もあると思うが、自分が「モーヲタ」になってからの17年あまりが一気に押し寄せてきた感覚があったのかもしれない。この17年と言うと、自分の中で色々あったもんな…。 あと、やはりある部分での自分の「基礎」を築いているのは、間違いなく安倍なつみと言う人なんだなぁ…という事も実感した。
12月14日(木) ザ・シネマで放送された、イングマール・ベルイマン監督「野いちご」を見る。 改めて見直してみて、これは一種のロードムービーだったんだな、と思った。 老医師が、名誉博士の授賞式へ向かうまでを、車で移動しながら様々な土地を訪れ様々な人に会うと言う形は、まさにロードムービーだろう。 単に土地の移動と言うだけでなく、老医師の思い出の土地に訪れたり、昔の馴染みの人に会ったりと、精神的な意味での「自分史」を振り返る旅でもあった、とも言える。 孤独で頑固だった老医師が、この旅を通して自分を振り返り、老いらくの中で改心していくと言うのは、いささか単純なストーリーであるが、色々と夢の描写が出てくる事もあり、これは一種の精神分析的な映画なのかな、とも思えた。 19~20歳の頃に見て感銘をうけたのは、そう言う側面に自分なりの意味を見出していたのかな、とも思う。今見ても、当時感じたような感覚にはなれないけれども。 作品の序盤に出てくる、シュールレアリスム映画のようなフッテージは、最初に見た時から強い印象に残っているのは、改めて見直しても強い印象に残る。
12月15日(金) バッテリーが持たなかったり、時折挙動不審になることもあって、iPhoneを新調。iPhone5からiPhone8に。 担当したソフトバンクショップの店員の言葉の端々から、「この旧式を今までよく使ってましたね」と言ったニュアンスを感じてしまったのは、自分の被害妄想か…。逆に、物持ちの良さを褒めて欲しいよ。 まぁ、iPhoneを新しくした所で、劇的に何かが変わったワケではないが。
ザ・シネマで放送された、イングマール・ベルイマン監督「秋のソナタ」を見る。 この作品も見るのは20数年ぶりだな。その時に、この映画の母と娘の確執を、自分の立場に置き換え、父と息子の確執として受け取った記憶がある。結局、その確執は癒えぬままに終わるのは、映画も自分の実生活も同じ。 娘が、深夜に今まで溜まった鬱憤を一気に母親にぶち撒ける場面を見て、「あ、ここに共感したのかな」と思った。 そういう自分と重ね合わせる部分とは別に、途中でピアノ曲や小説に対して講釈を垂れる母のシーンを見て、この母親は「権威と世俗の象徴」なのかもしれない、とも思った。 だからベルイマンは、ある種の「権威の象徴」とも言える、イングリット・バーグマンに母親役を演じさせたのかもしれない、などとも(どういう経緯で出演が決まったのかは知らないのだが)。 バーグマンの波乱に富んだ人生を考えると、この傲慢な母親は、ある部分でバーグマンそのものだったりして…なんて事も思ったりもするが。 それに対する娘役のリヴ・ウルマンは、母と対照的な健気な娘役を演じているが、リヴ・ウルマン自身は相当タフな人だと思うので、やはり役者と言うのはスゴイなぁ…などとも思ったりも。 あと、撮影監督のスヴェン・二クヴィストの撮る映像は好きなのかも。 回想シーンでよく使われていた、ロングショットの室内シーンは、なんとなくフェルメールの絵画を思い起こさせたが、それは意識してのことなんだろうか? あと、この映画に彼が撮影を担当したウディ・アレンの諸作を思い浮かべたが、それは逆だな、なんて思ったけど。
12月16日(土) FreshTVで中継された、遠藤舞のラストライブを見る。良いライブだった。 まいぷるに関しては、付かず離れずと言う感じのままファンで居た感じだったが、やはり改めて彼女の歌声は良いな、と感じた。 全編生演奏であったので、楽曲的にも統一感が出ていたし、まいぷるのボーカルも引き立っていたようにも思う。 途中で、まいぷるがリコーダーを吹いて、更にはテルミンまで演奏するインスト曲があったのは、やや驚いたが。 最後、泣きにかかるかと思っていたが、やはりそこはまいぷる、最後に一本締めで終わるという、よく分からない?締め方でライヴを終えた。 ホントなら、ライヴ会場にも足を運びたかったが、自分のような中途半端なファンが行くより、長年応援し続けた人が行った方が良いだろうと思って、チケットは取らなかった。即日ソールドアウトだったので、取れなかったとも思うけれど。 今日のライヴ中継を見ていて、改めて遠藤舞と言うシンガーは好きだったんだなぁと思ったし、現場に足を運べない人のために、クラウドファンディングであったけれどもネット中継をしてくれたことは非常にありがたかった。 考えてみれば、自分がアイドリング!!!のファンになったのも、テレビでたまたま見た、まいぷる卒業ライヴがきっかけだったんだよな。そう考えると、やはり「ありがとう」と言う言葉が、一番しっくり来るのかな、なんて思ったりもした。
NHKのBSプレミアムで放送された、アンドレイ・タルコフスキー監督「ノスタルジア」を見る。 タルコフスキーが描きたかった事柄の真意は、何度見ても自分には見えてこないが、以前に見た時よりも映画がすんなりと自分の中に入ってきた感覚はあった。 ロシアの作家と温泉の狂人と、どこに居ても部外者と言うか異邦人と言うか、集団から阻害されている者同志の不思議な共感。お互いに見ている風景、目指したい場所は違うであろうけれども、どこかお互いに自分と通じるものを見出していたのだろうな、と言うか。 そんな二人は、タルコフスキー自身の投影であったのかもしれない。ロシアに居ても常にアウトサイダー、イタリアへ来ても安住できる場所はなく、頭の中にだけ存在する故郷や子供時代に対しての強烈なノスタルジー。 世界の終わりに怯えるドメニコは、その後のサクリファイスで核戦争に怯える教授へと引き継がれているようにも思う。 改めて見直しても、この作品に救いはないな。果たして、絶望の果てに作家が見たものとは?
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by freakbeat
| 2017-12-18 23:54
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