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SHOKICHI ISHIDA 30 years appreciation DAY3 !!(9.3-9.9)

9月3日(日)
まほろ座MACHIDAで、石田ショーキチデビュー30周年ライヴのDAY 3、石田ショーキチgrpのライヴ(DAY 1とDAY 2の感想は先週のブログで)。

…と、その前に、町ガが商店会のイベント&パレードに出演すると言うので、そちらへ。
朝起きられなかったら回避と思っていたが、起きられたので最初から。
ステージは2回あったが、最初のステージでSAWAさんが作曲した新曲「キンキラキン」を初めて聞く。
かなりキャッチーな曲で、対バンで歌うと結構引っかかる人はいるのではないかと。
そう言う場面でのキラーチューンに今後なっていきそうな気配は感じたので、CDで出せばライヴ会場でも売れるだろうにな。
しかし、9月に入ったというのにまだまだ野外は暑かった…。

そして、夜はまほろ座で石田ショーキチ30周年記念祭の3日目、最終日のライヴへ。
まほろ座でのショーキチgrpは何度か見ているが、キーボードを担当していた健太さんが抜けてから見るのは初めてだったな。
健太さんの代わりに、若手のギタリストRyo Ohtakiさんが加わり、「Love Is Blind」ではツインリードを披露するなど、かつてのショーキチgrpでは見られなかった場面も。
Ryoさんは、当初はゲスト扱いだったらしいが、いつの間にか?ショーキチgrpのメンバーとして扱われていて、今回発売されたTシャツには、しっかりメンバーとしてクレジットされていたと言う。
鍵盤が抜けた分、若干ハードロックよりのバンドのなった印象はあったけれども、それもまた進化ということかもしれない。
でも、鍵盤の音が肝になるような曲は、今後しばらくやらなくなるかな…と思うと、それはそれで寂しいが。

MCで昨日のMOTORWORKSのライヴを振り返り、今回だけのアニバーサリーとして3~4人歌の上手い友人を連れてきてお祭りのように1回やって終わり、という事もできたけどそれはしたくなかった、という話をしていた。
町田くんに白羽の矢を立てたのは、単にMOTORWORKSの歌を歌うボーカリストという点だけではなくて、今後も活動していく上で一緒にやっていける「仲間」としての選択だったのだろう。
この話を聞いて、MOTORWORKSは今後もライヴを続けていくのだろうし、新作も期待ができるかもしれない、とは思った。

休憩を挟んだ後に、元アップルズ&ペアーズの岡田純さん、HARISSというバンドをやっているというAKIRA WILSONさんとショーキチさんの三人でアコースティック・ギターを持って登場。
今日が初披露という、Three Talller Hatsというコーラスをメインにしたグループとして、エヴァリー・ブラザーズとハプニングスの曲のカバーを演奏。
ショーキチさん曰く、普段「ガールズ・クワイア」なんてやってることもあり、自身のコーラスへのこだわりを表現する場所として結成した、とのこと。
ライヴの後に思ったけれども、ここへ来て、ショーキチさんが健一がやっていた健’zのようなアコースティックなグループを組むというのは驚き。やはり二人には通じる部分はあるのだろうな、とも思う。
岡田純さんが、今はチャーリー&ホットホイールズのメンバーであるという話もあって、チャーリー~と言えば、ファントムギフトのチャーリー森田さんのバンドではないか。
ファントムギフトと言えばサリー久保田さんということで、町ガとも関わりある人であって、意外な所で繋がるものだな、と。
しかし、エヴァリー・ブラザーズとゴリゴリなハードロックを同じライヴで演る人なんて、他に居ませんぜ…。

その後、まちだガールズ・クワイアの登場。
今回はショーキチ楽曲のカバーとして「支える手」と「サマーレイン」の2曲をショーキチgrpの演奏をバックに披露。
「支える手」は元々町田ゼルビアがJFLからJリーグ入りを目指していた頃にショーキチさんが作った曲だが、今回の流れで町ガが歌ったことで、この曲は町ガの事を歌った歌、前身グループが空中分解をした時にショーキチさんが手を差し伸べたことを歌ったのではないか、とさえ思わせてくれた。
恐らく、そんな気持ちになったのは、この「30年」というキーワードもあったし、昨日、一昨日とショーキチさんの音楽を浴びた後だからこそ思ったことかもしれない。

本編のラストは「30 Years Before」。
「30 Years」というキーワードがあるので、この曲がラスト(もしくはアンコール)だろうな、と思ったけれども、その曲調と歌詞の意味を噛みしめると、この3日間のライヴのエンドロールを見ているようでグッと来た。
歌詞の端々にショーキチさんの音楽人生を象徴するような言葉があり、この日・この時に演奏することを想定して書かれたのかと思えるほどだった。今までのライヴでも何度か聞いたことはあったと思うが、一番心に響いた。

それにしても、初めてショーキチさんを見た時は、L⇔Rの渋谷公会堂のゲストで、まだ音を聞いていなかった事もあるけれども、BAKUのメンバーが作ったグループの片割れ、という色眼鏡?でしか見ていなかったが、あれから30年経ってもステージを見ているとは思っていなかったな。
一時、ステージを引退するかもしれないと言葉にしていたが、この3日間のライヴを見て、続けてくれてありがとうございます!としか言いようがない気持ちだった。楽しかった。


9月4日(月)
日本テレビで、宮崎駿監督「もののけ姫」。
劇場公開時に見てよく分からなかったし、当時は作品の世界を広げるだけ広げて拡散して終わる宮崎駿の作家性?のようなものにも疑問を感じたりして、あまり良い印象を持っていない作品だったが、改めて見直すと分かる部分も多くあり、この25年で色々なものを見聞きした結果、理解が深まるというのはあるのだな、と実感させられた。
なんだか、全体的な印象として「ナウシカ」と対になっているような作品だな、と。
しかしながら、「ナウシカ」よりも強く「死」の匂いがするような作品であった。
直接的に武力による諍いで殺される兵士たちが多々描かれている部分もあるし(宮崎駿にしてはグロテスクな描写でもある)、森を守る動物たちも人間との諍いの中で殺される場面もある。
その一方で、主人公であるアシタカは、絶命するかのような傷を負うが、森の神様のおかげで命が助かる場面もあり、「死と再生」というのも大きなテーマになっていたのかな、とも思えた。
以前にちらっと読んだ文章で、この映画がかなり蝦夷の文化や、いわゆる被差別部落的な集落の持つ文化を背景にして描いているというものがあったが、それを意識しながら映画を見ていると、色々なものは見えてくる。
映画を見始めて思ったが、宮崎駿という人が描く世界は「中央」ではなく「周縁」に住む人々をメインに描いているものは多いのかもしれない。
それこそ「カリオストロの城」だってヨーロッパの?小国であるし、「ナウシカ」でも中央集権的なクシャナの軍勢と対立する人たちを描いていたり、「トトロ」や「ポニョ」でも描かれているのは都市でなく田舎であるし、「紅の豚」でも主人公は孤高の飛行機乗りと言うことで、決して「中央」に居る人間ではない。
こうした宮崎作品に共通する特徴は改めてこの映画を見直して気づいた発見ではあった。
あと、宮崎駿の映画では「労働」がモチーフとして使われることが多いという指摘もあるが、この作品でも「たたら場」と呼ばれる製鉄を行う集落が描かれていて、そこに住む住人たちは製鉄と共に銃などの鉄を使った様々な器具を作る事が描かれている。
そこで興味深いのは、この作品では男たちは武力的な部分での「仕事」をしているが、鉄を鋳造する作業を行っているのが皆女性だったこと。
考えてみると「千と千尋の神隠し」でも、湯場で働いていたのは皆女性で、宮崎駿の労働観の中に「働く女性」という視点があるのはなかなか面白い部分ではないかと(「千と千尋」は遊郭をモチーフにしているという部分もあったのだろうけど)。
そして、直接描かれては居ないけれど、エボシが「秘密の庭」としている場所で鉄砲を作っている人たち、全身に包帯を巻いた状態で作業をしていて、最初は鉄を打つ熱を守るためかと思っていたが、これはハンセン病患者を表してのも間違いない。
村の人間は誰も近づかない、という表現があったが、これはエボシに対しての畏怖というのではなく、単に病気の感染を恐れて(ハンセン病は感染病ではないことは今では知られているが)近寄らない、ということだったのだろう。
主人公の立場からすると、それらの鉄を使った銃器は自分たちの部族の文化と相容れぬ物のように描かれていて、ここには「文明」と「未開」の対立のような意味合いが込められているのだろうな、とも。
更に言うと、アシタカと彼の部族というより、彼の負った傷が「未開」の象徴としても扱われていて、たたら場の人間に対して、傷を持つ腕が好戦的な態度に出ようとするのは、自らの存在を打ち負かそうとする「文明」に対して反旗を翻している事を表しているに見えた。
「文明」の中でも、中央集権的な国家を作ろうとする部族と、それに抗う部族とが居て、ここでも「都市と周縁」という概念は読み取ることが出来る。
ここには、かつての日本が中央集権的な国家を作ろうとする勢力と、それに抗う地方の部族がいた事を示しているのだろう。
考えてみれば、宮崎駿の表現も決して「中央」ではなく「周縁」的なものばかり描いているので、そう言う地方部族の抵抗を描くことは、自分自身の表現を守るという意識が働いているようにも思える。
この映画のラストでも、最後は和解するかと思われたサンとアシタカは、それぞれの道を進むことが描かれていて、そこにも宮崎駿的な表現が現れているようにも思えた。


9月5日(火)
U-NEXTで、藤田敏八監督「横須賀男狩り 少女・悦楽」。
郊外の団地に住む夫婦が、押し込み強盗に襲われ、更には妻が犯されてしまう。その後何もなかったように暮らしているが、夫婦仲はギクシャクしている。一方、その夫婦と同居している妻の妹は、その友人と高校生活を楽しんでいた。そんな中、再び押し込み強盗が現れ、妻を犯して去っていく。その事がきっかけとなり、夫婦は離婚。一方で妻の妹は、その犯人繋がる手がかりを見つけて…と言ったストーリー。
この映画、レイプ犯に対しての復讐譚ではあるのだけれど、被害者本人が復習するのではなく、その妹がと言うのは少し捻れている。そこにストーリー的な必然性はあまり感じなかったので、主人公を「女子高生」とするために作られた設定なのかな…と思ったりもしたが、どうなんだろう?
映画としては、自分が藤田敏八作品に感じる刹那に生きる若者を描いた感じもなく、「作家性」が強く現れた作品とは言えなかったし。
タイトルの通り、横須賀を舞台にしていてロケ撮影も敢行。自分の地元だけに、ちょっとした風景でもすぐにどこで撮影されたのか分かる。
中でも驚いたのは、駅の近くの神社の向かいにポルノ映画館があり(おそらく日活)、あんな繁華街で駅のすぐ近くにあったとは、なかなか昭和な感じだな…と思う(その良し悪しは別にして)。
あと、蟹江敬三が演じる主人公の友人の母の元恋人が、肖像画屋の主人として出てきて、そう言えばどぶ板通りの近辺には肖像画屋さんがポツポツとあったな…と思い出す。最近あの近辺を通り過ぎても見た覚えがないので、既に廃業しているのだろうな…。
主人公の女子が働き始めるバーの壁面に「イージーライダー」のポスターが貼ってあり、やはり藤田敏八はそのあたりのアメリカン・ニューシネマに影響受けてるんだよな…と思わされた。
それにしても、この頃の矢崎滋、一時期の佐野史郎のような雰囲気だったな…。


9月6日(水)
横浜シネマジャック&ベティで、ジャック・ロジェ監督「パパラッツィ」。
ゴダールの「軽蔑」撮影中に、主演であるブリジット・バルドーを追うパパラッチたちを取材した短編。
BBが来たことで湧く地元の人たちと、部外者が立ち入らないように鉄壁の警備をする撮影隊、その間をかいくぐりなんとかBBの姿を撮影せんとするパパラッチたちの姿と、彼らのインタビュー、そして時折「軽蔑」の撮影風景を交えて構成されている。
パパラッチたちのなんとか撮影せんとする姿や、写真に捉えたことで新聞や雑誌に売ってお金にすることへの執念などを感じさせる部分は多かったが、今のようにスキャンダルを追うというよりは、どこかカメラ小僧的な部分も感じたのは、やはり時代のせいだろうか。
バルドーがやって来たことで騒然とする田舎の風景なども捉えられていて、芸能ニュース的な部分はあるものの、それなりに興味を引くものであった。

横浜シネマジャック&ベティで、ジャック・ロジエ監督「バルドーとゴダール」。
ゴダールの映画「軽蔑」の撮影メイキングのような短編。
「パパラッツィ」と対になっているような映画で、「パパラッツィ」は撮影風景をなんとか撮らんとする人々を取材していたが、こちらは公式に?撮影風景を撮った作品。
メイキングという側面もあるが、特にそうした部分に特化した作りではなく、傍観者的な立場は崩していない。
しかしながら、撮影するゴダールにはあまり関心が割かれていないのは明らかで、この映画でも中心はバルドーで、その次がフリッツ・ラングであるのは見るからに明らか。
なんだか「パパラッツィ」では必死に写真を撮ろうとする彼らを追っていながら、この作品では自分は無理しなくてもバルドーを撮れるのだよ…という余裕?のようなものを感じさせる。
正直、特に意味のあるドキュメンタリーには思えないが、当時のゴダールの撮影風景が撮られた作品は少ないだろうし、貴重なフィルムであるのは間違いないだろう。

横浜シネマジャック&ベティで、ジャック・ロジエ監督「アデュー・フィリピーヌ」。
ジャック・ロジエが手掛けた初の長編作品。
テレビ局でカメラのアシスタントの仕事をしている青年。そこに見学に来ていた二人の女性と知り合い、付き合いを始める。そんな中で仕事上のミスをきっかけに、テレビ局をやめることにした彼は、二人とイタリアへバカンスへ繰り出す。
62年の映画という事もあってか、それとも屋外ロケ多いせいなのか、ヌーヴェルヴァーグ色を強く感じる映画ではあった。
調べてみると、主人公の青年が兵役につくと言うのは、アルジェリア戦争のことで、その戦争に対して忌避する当時の若者の気持ちの代弁という側面のかもしれない。
終盤の人を煙に巻いてせせら笑う?ような展開は、そう言う兵役につかなければならない青年とその友人が青春を謳歌する刹那的な感情も表現していたのだろうか?
取り留めもない映画と言えば、取り留めもない映画であったが、最後は兵役に着くために主人公の青年は女友達と別れて一人船に乗るシーンで終わるというのは、やはり一つの青年期の終わりを象徴しても居たのだろうな。

横浜シネマジャック&ベティで、ジャック・ロジエ監督「トリュトュ島の遭難者たち」。
旅行代理店に勤める男が、単なる思いつきで無人島で文明と隔絶した環境で暮らすという企画を思いつき上司に伝えると、本社でもそれが支持され、試験的に一度ツアーを組むことを任される。片腕だった同僚は逃げ、その弟がやって来たりと序盤から波乱の展開で、ツアーに申し込んだ客はそれぞれに期待を込めてやって来たものの、主人公の代理店の男はツアープランを詳細に決めておらず、行き当たりばったりに無人島を目指すことになる。果たして、ツアー客や代理店の男の行く末は…と言ったストーリー。
「普段の文明的な生活から切り離されて無人島生活を楽しむ」と言うキャッチコピーが独り歩きして、最初から何も考えていなかった代理店の男が、仕方無しにそのツアーをでっち上げて、やって来た客を行き当たりばったりのたびに巻き込んでいくさまは、当人たちには悲劇だが、完全にブラックコメディであった。
そう言う話ではあったが、途中から全く希望もなく無人島を目指す彼らを見るのはなかなか辛い。行くも地獄、戻るも地獄と言えばいいのか。
終盤、完全に頭がおかしくなったように描かれていた主人公の男は、序盤はツアー客を先導するような形だったのが、次第に客に命令をし始め、支配者のごとく振る舞うようになっていったのは、隔絶した環境の中で「力」を少しでも持ったものが振る舞う仕草のように見えて、これも嫌な気分になったな。
映画が作られた当時に「リアリティショー」の類はなかったと思うが、この映画の作りがそういうリアリティショーっぽい部分があって、どこまで演出されて作られていたのか分からないけれども、自分が感じた「嫌な感じ」はそういう物にも通じる部分ではあったのかもしれない。
最後は一件落着というような「オチ」がつけられていたが、ああでもしないと物語が成立しないような形の映画ではあったかな。
それほど楽しめる作品でも無かったが、全てがシニカルなブラックコメディとして受け取るなら、悪い作品ではなかったのかもしれない。


9月7日(木)
横浜シネマジャック&ベティで、ジャック・ロジエ監督「メーヌ・オセアン」。
列車の中でブラジル人の黒人女性が言葉が通じないために車掌と揉めていると、フランス人の女性が助けに入る。二人はその後意気投合し、黒人女性は弁護士であったフランス人の行動に付き合う。裁判を終えた二人は、弁護をした漁師の男性に誘われて、彼の住む漁師町へと向かうことにしたが、そこでバカンスに来ていた列車の中で一悶着あった車掌たちと出会う…と言ったストーリー。
なんだかよく分からない映画だったな。列車の中で偶然であった女性たちの心温まる?交流の話かと思ったが、途中でブラジル人女性を雇っていたと言う興行主があらわれて彼女を引き戻そうとし、そうかと思えばその興行師が車掌の一人を役者として成功するとおだてて、結局は彼を途中で捨てて行くという展開。
終盤は、その車掌が元々の車掌の業務に戻るために奔走する姿を描く映画になっていて、最初の展開とは全く関係ない話になっていたのはさすがに「?」という感じ。

横浜シネマジャック&ベティで、ジャック・ロジエ監督「フィフィ・マルタンガル」。
とある舞台を演出している演出家が、リハーサル中にその筋を次々に改変していき、役者の中にはそれについて行けずに降りてしまう者も現れる。プロデューサーは舞台が開幕できるのか心配したが、リハーサルをずっと見ていた老人が全てのセリフを暗記していると分かり、彼を代役に抜擢する。彼は地方の劇団の主催で劇団の金策に困っていて、その舞台の出演料では借金にはまだ足りない。彼は劇場を抜け出してカジノに向かった…というようなストーリー。
とは言え、一応筋らしいものはあるものの、それをストーリーとしてきちんと描くような構成になっておらず(それなりに分かる形にはなってはいたが)、一つの物語としてこの映画を理解するのは難しい…。
都市の大劇場の劇団と、地方の小さな劇団との対比を主軸にすれば、もう少し分かりやすい話にはなったのだろうけれども、恐らく監督はそう言う事柄には興味はなく、ただただ登場人物が好き勝手に突き進む方を良しとしたのだろう。
時々フランス映画ではこういう形の「大まかなストーリーはあるけれども、細かい所は分からない」というものに出くわすよな…。この映画もそうした類の作品で、自分にはよく分からなかった…。


9月8日(金)
横浜シネマリンで、森達也監督「福田村事件」。
感想が長くなっったので、別ブログで → http://blog.livedoor.jp/magic_lantern/archives/38642835.html

U-NEXTで、小沼勝監督「金曜日の寝室」。
小沼勝の作品だったので見てみたが、これはあまり面白くはなかったな…。
前半は、会社の女性に手を付けては捨てていく男と、その男と不倫関係にある女性との話が中心で、会社の近くにある花屋の店員がその事情を知り、遠くから二人の関係を見ているような展開。
中盤に入ると、その花屋の女性が見抜いた不倫関係の二人に対して、男の妻に不倫関係をバラす電話をかけたり、二人の関係に匿名で横槍を入れ始め、最後には男に脅迫まがいの電話までかけ始める。
終盤に、花屋の女性がそうした仕打ちをしていたのは、かつて自分の姉がそう言う男に捨てられて死んでしまった事から、腹いせのために情事を知った男たちに脅迫の電話をしていたことが明かされる…。
花屋の女性が「悪女」的であって、それが彼女が受けた心の傷からの男性への復讐心だというのは分からなくはないし、その視点も悪くないと思うのだが、無駄に?会社での不倫関係を描く場面が長く、70~80分程度の作品ならば最初か復讐の物語を貫いて描いた方が分かりやすかったかな、と。濡れ場を作るために序盤の不倫関係を延々描いていたのは分からなくもないのだが…。
ラスト、モーターボートで岩場に突っ込んでいって、爆発・炎上というのは、ロマンポルノの第一作「団地妻 昼下りの情事」のオマージュ?


9月9日(土)
U-NEXTで、アンドリュー・スレイター監督「エコー・イン・ザ・キャニオン」。
LAのローレル・キャニオン周辺に集っていたミュージシャンたちのドキュメンタリー。
ボブ・ディランの息子である、ジェイコブ・ディランが様々なミュージシャンを訪ねて話を聞いたり、彼と同世代のミュージシャンがあの時代の音楽をカバーするライヴのシーンなどで構成されている。
オーソドックスな音楽ドキュメンタリーで、特に真新しい発見というのはなかったが、ザ・バーズ、ママス&パパス、バッファロー・スプリングフィールドなどなど、あの頃の音楽が好きな人ならば楽しめる作品。
当時活動していた人たちに関しては、比較的フォーク・ロック的なアプローチをしていた人が中心にはなっていたかな。ドラッグに関する描写もあるにはあったが、そちらは中心という形ではなく、フラワームーヴメントが生まれる少し前という感じ。
インタビューされた人の中には、デヴィッド・クロスビーであったりトム・ペティであったり、亡くなってしまった人たちもいて、こうしたドキュメンタリーで言葉を撮っておくと言うのは重要だよなぁ…と思ったり(エンドロールの前にトム・ペティに捧げるメッセージが現れる)。
ロジャー・マッギンがビートルズに衝撃を受けて、フォークをエレクトリック楽器でやろうとしたが、ニューヨークでの受けが悪く、西海岸へと渡ったと言う経緯なども語られていた。
「ペット・サウンズ」についてのシークエンスもあって、トム・ペティもジャクソン・ブラウンも最初は分からなかった、と答えているのを見て、「やっぱりそうだよね!」と激しく膝を打つ感覚。
ビーチボーイズに関しては「ペット・サウンズ」(と「スマイル」)だけ聞いてて初期のサーフサウンドを聞いてないような人間も嫌いだし、最初から「ペット・サウンズ」の魅力が分かったと言う人も、かなり胡散臭くかんじているので、二人の大物ミュージシャンが「最初は分からなかった」と言っていたのは、「激しく同意!」なんて言葉では言い表せない感覚を覚えた。
ブライアン・ウィルソンのインタビューもあって、「ペット・サウンズ」に至るまでに様々なミュージシャンの音楽に影響を受けたという話と、ビートルズの「リボルバー」が刺激となって「ペット・サウンズ」が生まれていった事も語っていた。
「ペット・サウンズ」に刺激を受けて「Sgt.ペッパー」が作られたのだから、お互い持ちつ持たれつというか、ロックの中での相互作用的な部分も分かるコメントだったな。
ビーチボーイズに関して語られる部分では、エリック・クラプトンがクリームを結成するに当たって、ビーチボーイズの哲学のような音楽をやりたかった、「ペット・サウンズ」に刺激を受けた、と語っていて、若干クラプトンのリップサービスじゃないの?と思ったりもしたが、少なからず影響はあったのだろう、とは思った。
この映画の中で、住んでるミュージシャンマップの中にピーター・トークが居たり、リンゴ・スターがジョージと一緒にミッキー・ドレンツの家に行ったとか、モンキーズ絡みの話も少しだけ語られるのも嬉しい。モンキーズを正面から追ったドキュメンタリーも見てみたいものであるが。
トリビュートライヴの模様も収録されているが、参加ミュージシャンの中にベックが居て、彼がママス&パパスの曲を歌っているのは、意外と言えば意外(彼がアコースティックギターを持って歌う場面などもあり)。
ママス&パパスのミシェル・フィリップスもインタビューに答えていたが、当時はジョン・フィリップスの嫁出会ったのに、メンバーのデニー・ドハーティと浮気をしていたことを赤裸々に語っていて「当時 “お盛ん” だったのよ」と自ら言うとは恐れ入る…。まぁ美人だったし、モテただろうねぇ…。

U-NEXTで、ウィリアム・ディターレ監督「ジェニィの肖像」。
ブニュエルがフェイバリットで上げていた映画の一つというので見てみた。
主人公は画家として成功を夢見ている男だが、生活もままならず家賃も滞納している。そんなある日、画家は公園で一人の少女に出会い、彼女をモデルに絵を描くことになる。その絵を画廊の主人に見せた所、以前の絵には興味を示さなかった主人が興味を持ち、その絵を買い上げることになった。その少女に再び会う度に成長しているように見え、画家は彼女に惹かれていく。その後、彼女の両親がいるという劇場に向かうが、劇場は既に潰れていて、更に娘は修道院に引き取られたことを知る。その後修道院を訪ねた画家は、彼女が海難事故で亡くなっていたことを修道女から聞かされる…と言ったストーリー。
どこか「ある日どこかで」に通じるものがあったが、元にしている部分はあったのかな?(「ある日~」は戯曲家・演出家が主人公であったが)。そう考えると、どこか「時をかける少女」にも通じる要素はあったかもしれない。
恐らく、時間を超えてのラブストーリーとしては、極々初期のものだったのではないかな?それが故にスタンダードな雰囲気はある。
そうしたストーリーをSF的な要素は使わずに、ロマンチックな物語として描いているのは、なかなか良かった。1948年当時ではSFは特異なジャンルで、恋愛劇と絡める発想がなかったのかもしれないが。
画家が成功した事を描いたラストは、ジェニーと別れざるを得なかった事と比べると、純然たるハッピーエンドとは言い難い展開だと思うが、そうした少しの苦味を感じさせるエンディングは嫌いではない。
それにしても、こうしたロマンチックなものにもブニュエルが興味を抱いていたというのは、なかなか面白い。

U-NEXTで、長谷部安春監督「暴る!」。
冒頭、主人公の女性が故障したダンプカーに修理道具を貸したことから、そのまま犯され、警察に届け出に行くと景観からセカンドレイプのように暴行の様子を根掘り葉掘り聞かれる。その夜、自分の車が故障し修理屋に持っていくと、明日にならないと直せないと言われ、その土地の宿泊施設がラブホテルしかないので泊まっていると、そこの管理人が部屋に忍び込み、再び彼女はレイプされる。翌朝修理屋に戻ると、手持ちでは代金が足りないと言うと足りない分は体で…とレイプされ、そこから車で逃げ出すと、男に追われる。逃げる時に怪我をした彼女は小さな個人病院へ行くが、麻酔をかけられそこでも院長からレイプされ、それを警察に届けると更に…と、なんともヒドイ話だった…。
長谷部のバイオレンス系ロマンポルノは、「ロマン」がないのであまり好きではなかったが、序盤で警官からセカンドレイプのようなことを受けた場面を見て、この映画はそう言う女性の視点に立った話なのかな…と思って見ていたら、そうは問屋は卸さなかった…。
なんだか、彼女の行く先々に犯罪者しか居ないような形で、どこを探してもこんな町ないだろ…とは思ったが…。
女性を辱めることで、男のくだらなさ、品性のなさを表したかったのか…?と一瞬思ったが、やっぱりそんな視点で作られてないよね…。長谷部はサディストだったのか、そう言うサディズムが受けると思って提示していただけなのか…。ラストシーンも「カタルシス」と言うにはあまりに凡庸で、主人公の中のまだかまり?が解消されたようには見えないし…。
長谷部安春のフィルモグラフィーで見ていない作品だったので見てみたが、何ら自分の中に残るものがない作品であった…。
主人公を演じた八城夏子の雰囲気は悪くなかったんだけれども。
あ、音楽はクールなモダンジャズでカッコよかった。このジャノ・モラレスって誰かのペンネームだと思うけど、実際の所誰なんだろう?


# by freakbeat | 2023-10-19 23:28 | Comments(0)

新代田 2 Days "Scudelia Electro & MOTORWORKS !!"(8.27-9.2)

8月27日(日)
池尻大橋の#Chord_にて、Kus Kusの定期ライヴ「Gimickus」。
今回はゲストにHau.こと、ほわどるのはーちゃんを迎えた公演だったので出かける。
自分がKus Kusを知ったきっかけも、ほわどるが出た横浜のイベントだったので、そういう思い出も含めて。
まず最初にKus Kus二人の軽いトークがあり、Hau.のパートがスタート。
今回、音のセッティングがKus Kus仕様の低温が強調された雰囲気の音だったので、今まで見てきたはーちゃんソロとは若干違う雰囲気で楽しむことが出来た。改めて、ライヴハウスやエンジニアさんの違いで音って変わるものだな、と。
特典会ではーちゃんにそんな事を言ったら、本人も多少意識していたようだったが、個人的には今日みたいな出音の方が好みかもしれない。
続くKus Kusのパートでは、「素敵な宝物」や「恋模様」と言った初期ナンバーをやってくれたのも嬉しかった。
なにより「恋模様」は、最初にKus Kusを「いいな」と思ったきっかけの曲であるので、曲自体が好きなのはもちろん、なんとも嬉しい気持ちになった。二人が傘を持ったのを見た瞬間から高まったなぁ。
この日が初披露となった新曲「曖昧シンメトリー」、カッコいいタイプの楽曲で、最後にこう来たか、という感じ。
歌詞を聞くと、以前のKus Kusの曲のタイトルを所々で入れ込んであるようで、キャンディーズの「微笑がえし」的な部分はあったかな、と。
家に帰ってから調べてみると、Kus Kusを初めて見たのが7年前だと知り、いつの間にかそんなに時間が流れていたのか、と驚く。
Kus Kusに関しては、ずっと付かず離れずのような状態で、イベントがあって見に行けたら行く程度だったのだが、自分の推しグループの解散・活動休止が相次ぐ中、いつの間にか上位に上がってきていたような感じ。
そんな中で活動を続けてくれていたことに感謝もあったが、それも11月までなのだよね…と思うと、やはり寂しさはある。

ライヴを終えて、横浜へ出る。
ヴィレッジ・ヴァンガードの横浜ビブレ店で、WAY WAVEやルカタマさんの出るフリーのイベントへ。
自分的にはルカタマさんが見たかったが、そこには間に合わず、なんちゃらアイドルが最後の曲を歌い始めた頃に会場に到着。
続くWAY WAVEは、二人でのパフォーマンスの他に、絶対忘れるなとのコラボも披露。
なんとなく見に来たと言う形であったが、WAY WAVEのステージを見ながら、そう言えばほわどるが代官山UNITでライヴをやった時、Kus KusとWAY WAVE(当時はANNA☆S)のメンバーって、関係者席で並んで見ていたな…と今まで忘れていたことを思い出す。
ほわどるも、ANNA☆Sもなくなり、Kus Kusも11月に活動休止と考えると、やはり月日は流れているのだな…と感じざるを得ない…。

ムービープラスで、トマス・ロブサーム/アスラーグ・ホルム監督「a-ha THE MOVIE」。
「Take On Me」などのヒット曲で知られる音楽グループa-haのドキュメンタリー。
A-haに関しては、それほど深く追っていたわけではなく、ヒット曲を数曲知っている程度であったが、この映画はなかなか面白かった。
形式としては、現在の(映画撮影時の)ライヴやレコーディング風景の彼らと、少年時代からのメンバーとグループのバイオグラフィーを振り返るのを交互に見せつつ、a-haというグループを浮き彫りにしていく、と言ったもの。
ドキュメンタリーとしてはありふれた形式だが、この映画ではその形式が見やすく、分かりやすいものになっていたので、音楽ドキュメンタリーとしてオーソドックなものとして楽しむことは出来た。
本気なのか冗談なのか、映画の冒頭でライヴのバックステージで「レコーディングはしないのか」と聞かれたメンバーが、「今やったら殴り合いの喧嘩になる」と答えている場面があって、やっぱりバンドって色々あるよな…と思ったり。
特に世界的な成功を収めた後、その後もグループとしての活動を継続していくとなると、一般の人間には考えられないようなストレスや人間関係のもつれはあるのだろうな、とも。
そして、ありがちな話であるけれども、ヒットを飛ばしてポップスターになった彼らも、アーティスティックな欲求を満たしたい部分と、世間から求められるアイドル的な部分との狭間に苦しんでいた事も語られる。
特に80年代という時代だと、そう言う時代のアイコンとして求められるイメージと、アーティスティックにやりたいこととの乖離と言うのは、現在のポップミュージックを取り巻く状況とは全く違うものだったのだろうし。
映画の中で「Take On Me」が世界的なヒットになるまでが語られていたが、印象的なイントロのフレーズはメンバーが10代の頃に居たバンドの頃から使っていたもので、それを流用したと言うのは知らなかった。
更には、あの徐々に音程を駆け上っていき、最後にファルセットになるサビのメロディーラインに関しても、「サビが弱い」「モートン(ボーカル)のハイトーンを活かしたものがいい」と判断したプロデューサーの支持から生まれたものだと知る。
そして「Take On Me」といえば、あの誰もが記憶に残っているであろうMVだが、あのVTR以前に本国ノルウェーで、いかにもありふれた80年代的なPVで撮られていたものがあったというのも、自分には驚きだった(その映像の断片が映画にも使われていたが、かなり野暮ったくて、これは売れないだろ…というものだったが)。
彼らの少年時代について語るフッテージが、鉛筆画のアニメーションで描かれている場面になって、やはり彼らにとって「Take On Me」のMVはアイコンでありながらも、逆に言えば「呪縛」として深く根付いているな…と思ったりもしたけれども。
特に目新しいものなどない、音楽グループを描いた極めてオーソドックなドキュメンタリーであったが、a-haについて少しでも興味がある人ならば、楽しんでみることが出来るドキュメンタリーであったかな。


8月28日(月)
U-NEXTで、ルイス・ブニュエル監督「ロビンソン漂流記」。
シネマヴェーラのブニュエル特集に通った?影響もあり、U-NEXTにあったので見てみたが、はてさてこれは…と言った作品。
言うまでもなく「ロビンソン・クルーソー漂流記」の映画化なのだが、原作に沿って映像化しようとしていたせいなのかは分からないが、様々なエピソードは語られるものの、「物語」としての大きなうねりを感じるような映画ではなく、「ブニュエル的」なものを求めて見ていると残念な気持ちしか残らない。
それでもどこかに「ブニュエル的」なものを見出すのが「作家主義」的な見方なのかもしれないが。
途中、先住民の一人を保護し、フライデーと名付け言葉を教えて、従者としていくが、恐らく原作通りなのだろうけれども、当時の白人至上主義的なものは感じたかな。
先住民の文化=劣っているもの、白人の文化=先進的で洗練されているものと、単純に白黒つけているのは、今の視点から見ると違和感は感じる。
あと「ふしぎの海のナディア」のいわゆる「島編」は、ロビンソン・クルーソーを下敷きにしてたのだろうなぁ…と思った。恐らく、ファンの間では既に定説になっていることなのかもしれないが。

U-NEXTで、長谷部安春監督「㊙ハネムーン 暴行列車」。
カジノ賭博の現場を襲った二人の男。しかし片割れが足に怪我を負い、逃げる羽目に陥る。車を強奪しようとした所、近くで結婚式を上げていた花嫁をその場で誘拐し、車を運転させる。更に遠くへ逃げるために、貨物列車に乗り込む三人。怪我をした男のために薬や食料を得るために街に出ると、彼らが指名手配されていることが報道されていることを知る…と言ったストーリー。
冒頭からカントリー的な音楽が使われていたり、男二人女一人の逃避行と言うことで「明日に向かって撃て」を連想させる作品。
列車を使って逃げるというのも、どこかアメリカン・ニューシネマ的だが、広大なアメリカとは違って、国土の狭い日本で鉄道で逃げるにしても、限られた場所にしか行けないだろうな…とは思ったが。
けれども、あえて列車にしたのは、やはりどこかにアメリカン・ニューシネマ的な世界観を持ち込みたかったからだろうな、とは思った。
とは言え、フィクションであり、70分程度で作るロマンポルノ作品としては、小気味よくまとまっている感じはあって、悪くはない作品だった。
女が食料を得るために、食品店の店主にストリップまがいの事をして食品を次々に上乗せしてもらう場面などは、長谷部安春の作品の中では、最もコミカルな場面だったのではないかな?
半分誘拐されたような男に付いていくかよ…とも思うのだが、ヒロインの彼女は結婚式の途中で新郎から卑猥な行為を強要されていたりで、どこか結婚する男に幻滅して逃避行へと向かう理由付けは一応されているのだよな。
ラストも、アメリカン・ニューシネマの諸作と同じく、破滅的なラストが待っているのだが、この映画を終わらせるのには、ああした形しかないだろうな…とは思ったし、それが故にニューシネマっぽさを感じた部分もある。
長谷部安春の作品の中で、バイオレンス色を強く押し出すことなく、アメリカン・ニューシネマ的な要素を全面に押し出したのは、この映画が最も顕著なものだったのだろう。


8月29日(火)
U-NEXTで、小沼勝監督「犯される」。
宮下順子が主演のロマンポルノ。
冒頭で長弘が演じる夫が連れてきたいかにもゴロツキの男に、宮下順子が犯されてしまい、このタイトルでこう言うバイオレンスな展開なら小沼よりも長谷部安春などの方が上手いのでは…と思ったが、それ以降がサスペンス映画的な展開になっていき、なるほど小沼勝が監督に選ばれたのはこう言う事か、と思った。
ロマンポルノで短い尺に収めなければいけない宿命?もあって、深い話には持って行けていないが、二転三転していく展開は見ていて飽きさせない。
最初は、夫はある面で被害者にも見えるように演出されていたが、次第に彼は自分自身のことしか考えていないことが顕になっていき、妻である宮下順子にも見限られていくという展開は、なかなか良かった。
終盤に行くに従って、ある意味で女性の復讐の物語として描かれていって、この映画のテーマとしては「女性」だったのだろう、と思わされ、序盤は単に悲劇のヒロイン的であった主人公が復讐心に燃える女へと変貌していくのは、宮下順子ならではの女優としての側面が垣間見える作品だったとも言える。


8月30日(水)
チネチッタ川崎で、クリストバル・レオン/ホアキン・コシーニャ監督「オオカミの家」。
実験的コマ撮りアニメ作品が、チッタの大きなスクリーンで、しかもLIVEサウンドとチッタ銘打っている音響で聴けるとあって、チネチッタまで。
予告編は見ていて、なかなかホラー的なテイストも感じるアニメだな…とは思っていたけれども、自分にはそれほど響かず…。
どうやって撮っているのかな?という、アニメーションの制作に関する興味は湧いた映画だったけれども、スッと引き込まれるような魅力は自分には無かったかな。
ストーリーの意味がよく分からないという部分もあったとは思うけれども、それならクエイ兄弟の諸作もストーリーはよくわからないものの、その世界観にはスッと入り込めたことはあるし、やはり感覚的に自分と少し合わなかったのかな、と。
とは言え、チッタの音響設備のせいもあってか、音響にはこだわって作られたのは意識させられて、右へ左へ時には前後も感じさせる音響は、単純に心地よさは感じた。
ストーリーは、チリのピノチェト政権時に実在したコミューンを元にしていて、そこから逃げ出した少女を主人公に、彼女の逃げ込んだ家の中にいた二匹の豚に名前をつけて、彼らを飼うことで、悪夢のような出来事に巻き込まれていく…というようなもの。
そのストーリーも、ぼんやりとしたイメージのようなもので、映画の中で明確に語られているワケではない。
監督の二人も、この映画の中で明確なストーリーを語ろうとはしていないだろうし、そうしたストーリーもモチーフの一つで、イメージの発端として必要だった事柄程度のものだったようにも思う。
ミニシアターで見る夜大きな画面で見たことで、特に新鮮さは感じなかったが(小さいスクリーンで見た後に大きな画面だとまたちがったのかもしれないが)、最近あまり見ていなかった、奇妙奇天烈な世界が味わえたのは良かったのかな。

クリストバル・レオン/ホアキン・コシーニャ監督「骨」。
2023年に美術館の建設に当たって発見された1901年に作られたストップモーションアニメという「設定」の映画。
この映画の初公開は2021年だったらしいので、設定自体が既にフィクションなのだが、どこかの映画祭で公開した際には本当に1901年の映画だと信じた審査員が居たとか…。
「オオカミの家」と比べて、こちらの方がその設定やモチーフは別にして、表現の方法としてはオーソドックスなストップモーションアニメの風情を感じる作品だったな。
なにか宗教的な秘儀が扱われているような雰囲気はあったが、その内容に関しての解説はなく、あくまで「発掘された映画」という体を崩さないのだろう。
映画を見ながら、トーキーなのは別にして、1901年ではまだこの技術は映画で開発されていないだろ…という部分があったのだが、具体的にどういうものだったか忘れてしまった(この作品の後に「オオカミの家」を見てしまったのが原因だろうか…)。


8月31日(木)
DOMMUNEで、鮎川誠ならびにシーナ&ロケッツの特集。
サエキけんぞうさんの司会で、三人の娘さんが出演。その間にゲストが入れ代わり立ち代わりするという内容だったが、土屋昌巳さんの話が興味深い話ばかりだった。
ギターの素材やアンプ、ピックアップの話などから、鮎川さんが研究熱心、勉強熱心であったことも語られ、ロックンローラーでありながらも、どこか紳士的な雰囲気を漂わせていたのは、そうした勉強熱心であった側面があったからなのかな、と思ったりもした。
終盤は鮎川さんとシーナさんの娘さん(三女)がアコースティックライヴで、シーナ&ロケッツのナンバーを披露。
アコースティックであったこともあり、そのボーカルにどこかニコっぽさを感じて、シーナ&ロケッツのロックンロールとは違う魅力が出ていて良かった。

※この日の配信は後日アーカイブされたので、こちらで…https://www.youtube.com/watch?v=yiWke4GaSHo


9月1日(金)
新代田Feverで、石田ショーキチデビュー30周年ライヴのDAY 1、スクーデリア・エレクトロのライヴ。
スクーデリアの活動期にはCDでは聞いていたがライヴに行くことがなく終わってしまったので、実は今日がライヴ自体は初体験。
1曲目が「さよならノーチラス号」で、「そうですよねぇ!」という感覚と、ショーキチgrpや弾き語りで聞いていた「ノーチラス号」とは、やはり違う空気を感じて、その時点でかなり高まる。
最初のMCでショーキチさんが「スクーデリア・エレクトロです!」と言った時に、吉澤さんが嬉しそうにニコっとしたのが目に入って、吉澤さんも久しぶりのライヴに喜びを感じていたのだろうな、と。
あと、最初の3曲は3人だけの演奏で、MCで純然たる?スクーデリアの3人だけでライヴをやったのは初めてという発言があったので、貴重なものを目に出来たのだな、と改めて思う。
そのMCのあとで、湯川トーベンさん、向山テツさんのリズム隊を呼び込み「Better Days」からの「Rainbow」と言う、自分的なポリスター時代のハイライトが連発され感無量。
特に「Rainbow」をトーベンさんのベースで聞けたのは無茶苦茶テンション上がったし、演奏自体も最高だった。
考えてみれば、トーベンさんとテツさんのリズム隊の演奏を聞くのは、それこそスパイラルライフのラストとなった横浜アリーナ以来ではないかな?
トーベンさんを紹介するMCで、「Better Days」のベースはCDではショーキチさんが弾いたと話していて、それは知らなかったのでいい話を聞いた。
途中休憩を挟んだ後に、リズム隊を入れ替えてベースは高石マキオさん、ドラムはひぐちしょうこさんへスイッチ。ショーキチさんいわく、後期スクーデリアを支えたリズム隊、と言う事。
数曲演奏した後で、まちだガールズ・クワイアから、もえか、あいね、ひよりの三人が「MGC THREE」としてステージに参加。
ショーキチさんは本当はメンバー全員参加して欲しかったが、ステージには全員乗れないので…という事で、それぞれのパートから一人ずつ選抜で、という事。
ここで歌われた「TRUTH」が最高で、吉澤さんのエレピと町ガのコーラスに耳を傾けているだけで格別な気持ちになれる時間だった。
ショーキチgrpでも何度か聞いているが、コーラスが女声になっただけで、こんなに世界が広がるのかと素直に驚いた瞬間でもあった。
その後は「ラブ・ドロイド」と「一万マイルの彼方へ」の計3曲に参加したのだが、このライヴ音源がCDにならないものかと切望する気持ちが生まれた。
その後は後期のスクーデリアのロックナンバーを怒涛のように演奏し、本編は終了。
本編最後が「霧雨」だったのは意外だったが、その後のアンコールは「Moonbase」!!!
最近、ライヴでは町ガバージョンでしか聞いていない(と言っても町ガのライヴもそれほど行っていない)自分としては、「これだよ!これ!」と言う感覚は強く湧き上がってくる。この曲は、やっぱりバンドでやると疾走感も含めて最高だな、と。
あと、今日のライヴでは寺田さんがYENレーベルのTシャツを着ていて、YENというと細野さんと幸宏さんが始めたレーベルで、勝手な思い込みの部分もあるとは思うけれども、どこか幸宏さん追悼の意味もあったのかな、と。
以前に、確かショーキチさんの25周年ライヴだったと思うが、寺田さんが数曲参加した時があって、ショーキチさんが「寺田さんが参加するとグループでやってもスクーデリアの音になる」と言っていたが、今日は最初から最後までそう言う音を全身で浴びる事が出来たのは、喜び以外の事場で表現しようがない。
途中のMCで、メンバーそれぞれが手応えを感じていたらしいことも語られ、新曲?次のライヴ?へ向けての豊富のようなものも語られていたので、そちらも期待して待っていよう!


9月2日(土)
昨日に引き続き、新代田Feverで、石田ショーキチデビュー30周年ライヴのDAY 2、MOTORWORKSのライヴ。
MOTORWORKSも、スクーデリアと同じくライヴへ行く機会がなく健一が旅立ってしまったので、今日が初ライヴ。MOTORWORKSに関しては行こうと思えば行けた機会はそれなりにあったんだけどね…。
昨日は下手側で見ていたので、今日は上手へ…。
オープニングアクトのバンドは、ショーキチさんのレーベルSAT RECORDSからCDがリリースされているらしく、その縁でのオープニングアクトだったらしい。20分程度の演奏のあと、いよいよMOTORWORKSの登場。
開演前から、それなりに熱気を感じた会場だったが、やはり本人たちが登場して音を鳴らした瞬間は、自分も高まっていたのもあって、会場のボルテージが一気に上がったことが感じられた。
1曲目はアルバムのオープニングも飾っていた「THE SLIDE」。
今回MOTORWORKSを再開させるに当たって、新たにボーカルとして加わったのは町田直隆くん。
彼はかつてバンジージャンプフェスティバルと言うバンドで、ショーキチさんがプロデュースしていた縁から選ばれた模様。
健一と比べて新ボーカルはどうなの?というのはライヴが始まる前は思っていたが、全然違和感なく、かつ健一のコピーとも違う、町田くんのボーカルでMOTORWORKSに馴染んでいる感じがあるのが凄く好感触だった。
次々に演奏されるナンバーの中で、ショーキチさんと町田くんがツインリードをかます曲があって、恐らく健一時代には出来なかった演奏で、これは「新たなるMOTORWORKS」を予感させる部分であった。
元々趣味的なカバーバンドとして始めたと言うのもあり、今回のライヴでも新たなカバーをということで、ヤング・ラスカルズの「Good Lovin’」を披露。
サンコンさんの曲前の解説だと、ジ・オリンピックスというドゥーワップグループがオリジナルということだが、クジさんの鍵盤のフレーズなどなどもあり、やっぱりヤング・ラスカルズのカバーと言っていいよね。
MCでショーキチさんが「今日は何の日だい?ってカッコよくお客さんに振って」と、町田くんに無理強い?していたが、町田くんは何やら分からずに「今日は何の日だい?」と客席に聞いていたけれど、客席はなごやかな?爆笑に包まれる。
以前のMOTORWORKSを知らなかったら、全く分からない「ネタ」であるけれども、こう言う部分で健一に対するリスペクトも示していたんだよね、多分(どう考えても、健一がボケでショーキチさんツッコミだもの)。
健一の話で言うと、極々個人的な感情であるのだけれども、それまでは健一のボーカルなど意識せずに町田くんのボーカルに耳を傾けていた自分であったが、なぜか「Missing Piece」を歌った時だけ自分の耳に健一のボーカルが響いてきて、涙が止まらなくなってしまった。
歌詞の切なさ、メロディーの美しさなど、心の琴線を刺激する部分は多い曲であるけれども、そのタイトルの「失ったかけら」が健一そのものを象徴するように自分の中で響いてきた部分もあったのだろう。それか、もしかしたあの瞬間に健一がどこか会場に降りてきていた、とか…。
それはともかく、なんだか健一も加えた5人での演奏を聞いていた気分になってしまった面はあったかも。
町田くんもMCで話していたが、自分は健一さんの代わりに入ったのではなく5人目のメンバーとして加入した気持ち」(堀くん加えれば6人目)と言っていたが、自分もそう言う気持ちでいたのだろうな。

そして、今回アンコールは、ショーキチさんの「我々はカバーバンドでありますので…」というMCの後に演奏されたのが、スパイラルライフの「GARDEN」。
まさか、こんな曲がライヴで、しかもスパイラルのメンバーが居る場で聞くことが出来るとは思ってなかったんで、もう自分のテンションは最高潮!
ここが一番のハイライトだったのは間違いないと思うけれども、自分以外にもそう感じていた人は多かったんじゃないかな?(少なくともショーキチさんファンはそうであっただろう)
「GARDEN」は、町田くんのリクエストだったらしいけれど、健一が居たら絶対演奏はされなかった曲だろうなぁ…。
その後でマーサ&ザ・ヴァンでラスの「Heat Wave」が演奏されて、今回のライブは終了。
「Heat Wave」のアウトロに、ザ・フーの「My Generation」を引用していたのも、MOTORWORKSならではの遊び心があって、個人的には凄く楽しめた。
最後の最後に、ショーキチさんが「健一、見てるか!」と叫んだのは、高まる部分もありつつ、やはり自分には感極まる所もあったな…。健一も絶対見てましたよね!会場にも来てましたよね!

あとライヴとは直接関係ない話だが、今日で加入6周年だった町ガののぞ&ぴよちゃんに、終演後に物販を担当していた時に「加入6周年おめでとう」を一言が言えたのも個人的には良かったな。



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# by freakbeat | 2023-10-08 18:06 | Comments(0)

まいにゃと横浜クルーズ(8.20-8.26)

8月20日(日)
まいにゃこと小桃音まいのバースデーイベント。
今回は、横浜港の船上クルーズライヴというのもあり出かける(あと、一般チケットは安く設定されていたのもある)。
昨年のバースデーライヴには行かなかったので、まいにゃを見るのは2年ぶりくらいか。
ライヴが始まる前に船が動き出し、みなとみらいの風景を通り過ぎると、遠くにマリンタワーが見えてきて、その瞬間に幼い頃に家族と山下公園界隈に出かけたことを思い出す。
みなとみらいはもちろん、大桟橋や山下町界隈を海から見るのは初めてだった。
そういう風にライヴとは違う部分で刺激を受けたところで、まいにゃの登場。
船上ライヴは初めてのようだったけれども、なかなか特別な感じがあって良かった。
ライヴのセットリストは、新曲を交えて往年の人気ナンバーを中心に歌われた。
ラストが「キラリ☆」だったのは、MCでも言っていたけれども、この曲はまいにゃの中で特別な1曲であるのだな、と改めて認識させられた。
船はベイブリッジの下をくぐり抜けたあたりでしばらく停泊して、そこを折り返し地点にみなとみらいの象の鼻桟橋へと戻っていくコース。
距離的にはそれほど長いコースではないけれども、普段見ることない海側からの横浜港を堪能できたのは、単純に楽しめた。
いつの間にか「ファストパス」なる制度が利用されて以降、まいにゃの物販は縁遠いものになっていたが(単に待つのが嫌いな自分のせい)、今回は幼い頃の思い出を思い出させてくれたり、今まで見ることのなかった横浜風景を見せてくれたりもあったので、今回は物販に並ぶ。
まいにゃに、小さい頃によく来ていた横浜の港の風景を海側から見られて良かったと話すと、思い出の場所なんですねという反応のあとに「また、私とも思い出作りましょう!」と言われて、ちょっとキュンとなってしまった。
「夏の思い出」というと陳腐な表現だけれど、今日のライヴは「夏の思い出」として心に刻まれるものだったな、と言うのは思ったかな。

みなとみらいの象の鼻桟橋からの帰り際、伊勢佐木町を通る。
イベント前にも通り過ぎたが、今日で伊勢佐木町にある不二家は一旦閉店し、今後解体・リニューアル作業に入ると言う。
自分は幼い頃から伊勢佐木町には両親に連れて行ってもらっていたが、不二家に入った思い出はほぼない。
両親の好みの問題か、昼食は今はなき松坂屋の食堂、3時のおやつは当時有隣堂の地下にあった喫茶店である事が多かった。
とは言え、伊勢佐木町にはもう数え切れないほど訪れていて、行けば昔からそこにある建物であったので、あの昭和のモダン建築が無くなってしまうのは寂しい。大人になってからもケーキを買って帰った記憶はあるし。
昼の時間は、中の食堂に入るのに列が作られていたり、店頭でも写真を撮る年配の夫婦らしき人が居たりと、それぞれに思い出深い場所であったのが偲ばれた。
子供の頃からずっと行っている伊勢佐木町であるが、またの姿を変えていくのだな…今日は、色々と横浜について思いを巡らす一日となった。

ムービープラスで、キャシー・ヤン監督「ハーレイ・クインの華麗なる覚醒 BIRDS OF PRAY」。
以前に一度見て、あまり面白くなかったが、「バービー」を見た後だと、同じマーゴット・ロビーの主演で、他のサブキャラも女性を中心に据えたものだったし、見方が変わるかも…と思ってみてみたが、やはり面白くないものは面白くなかった…。
とは言え、改めて見直して新たな発見もあった。
家族も居ないはぐれ者の少女がヤクザ組織から狙われて、それをこちらもはぐれ者である主人公が助けるという展開が、リュック・ベッソンの「レオン」そのものではないか、という事。
「レオン」ということは、カサヴェテスの「グロリア」でもあるのだが、それらを元ネタにしたのかどうかは分からないが、引用としては失敗作だよな…。
ハーレイの側が下手に「チーム」を組んでしまう事が、単に「キャラクターが大勢でてきて分かりづらい」事になってしまっていて、これならハーレイ一人で少女を助ける展開の方が分かりやすいじゃん…と思ってしまった。
まぁ、それだとあからさまに「レオン」を引用(パクり?)してる作品になってしまうから、それを避けようとした面もあったのだろうけれども、「チーム」の面々のキャラクターを説明する部分もあり、それが「余計」な時間にしか思えなかった…。
あと、その「チーム」の人たちが、ハーレイを除くと単純に「華」がない…。これが圧倒的に映画的な魅力を損なう原因になっていたように思う。
そのチームに黒人が居たり、アジア系が居たりと「多様性」を盛り込もうとしているのは感じたけれども、キャラクターに魅力を感じるような設定、演出になっていないのは、やはり致命的だよなぁ…と。
そのハーレイにしても、彼女のポップなキャラクターを活かして作ろうとしたのが、ひたすら空回りしている印象もあるし…。
監督のキャリアを見ると、この映画の前に長編を一本作っただけのようだし、長尺物の演出に関してはあまり長けていなかったのかもしれないが…。
同じDCコミック、DCEUの「ワンダーウーマン」と裏表の関係として、この映画が企画されたのかもしれない、とは思ったけれども、ヒーロー映画の王道を行く「ワンダーウーマン」と、こちらの映画を比べると色々苦しいものしか感じないかな…。
やはり、何と言ってもハーレイのチャーミングなキャラクターと、そこの裏に隠された狂気がきちんと描かれているように思えず、ジェームズ・ガンが監督した「ザ・スーサイド・スクワッド」の方が、何倍も魅力的にハーレイ・クインを描いていたように思う。
やはり、そのキャラクターを活かすも殺すも、監督の違い、演出の違いで大きく差が出るのだな、と実感させられた。
ハーレイのキャラクターを活かすために、思い切ってポップアート的な世界観を全面に押し出した方が、映画としても魅力は生まれてかもしれない、と勝手に創造する(一応舞台がゴッサムだからダークに作ったのかもしれないけれども…)。
それから所々で、ハーレイのナレーションとテロップでキャラクターの説明が出る場面があるが、コミックを意識したのだろうという想像はつくものの、それが効果をもたらしているとは言い難く、自分には単なるノイズでしかなかった…(「スパイダーバース」では、似たような形でも普通に受け入れられたのだが…)。
この映画、マーゴット・ロビーもプロデューサーに名を連ねていて、彼女は「バービー」でもプロデューサーとして参加していたけれども、この映画に関しては失敗作だよな…。まぁ、失敗から学んだことは大きかった、という事かもしれない。


8月21日(月)
U-NEXTで、グァルティエロ・ヤコペッティ/フランコ・プロスペリ監督「続・世界残酷物語」。
前作のヒットにより、撮影されながらも前作で使われなかったフッテージを元に、その他の場面も追加して作られたと言う第2弾。
映画としては、前作で使われなかった場面を中心にまとめたというのもあるのか、前作の方がまとまりは良かったかな。
二匹目のドジョウと言えばいいのか、どこかそう言う部分は感じなくもない作品である。
…と思って調べてみると、ヤコペッティ自身はこの映画の制作当時は交通事故で入院していて、共同監督としてクレジットされているプロスペリが追撮を行って完成させたのだと言う。
オープニングで、前作がイギリスで検閲にあったという話から、それへの当てつけのように犬の手術シーンで始まり、続く犬のファッションショーでは、人間に引き回されてる犬を映し出すなど、やっぱりこの映画はシニカルなギャグ映画なのだよな。
当時、前作も含めて大真面目にドキュメンタリーとしてみていた人も居たのだろうと思うと、そう言う事も含めてシニカルなギャグにしか感じない映画でもある…。
逆にこのシリーズを今作を大真面目に作っている意識があったら、それこそ頭おかしいよな…。メキシコの警官の曲撃ち?なんて、実際にやってるわけないものな…。
前作も元々作為的な要素が強く構成されたのを知って見たが、そう言う部分を分かってみていると、「世界の未知なる風習や文化を知ろう」というお題目は、ただ名目上で掲げられているだけで、映画の内容的にはヤコペッティ(とプロスペリ)が珍奇なものを集め、単なる「物珍しさ」だけで人々の目を引こうとしているのは分かる。
言ってみれば「見世物小屋」的な要素が非常に強い映画なのだよな。それが故にドキュメンタルに撮影していても、フィクション的な要素が強く混ざり合わさって構成されている。
とは言え、途中で環境汚染でフラミンゴが死んでいく姿を写していたり、ベトナムでの僧侶による焼身自殺の模様が使われていたり、環境問題や政治意識に対する事柄も、今作では扱われている。
ベトナムの僧侶の焼身自殺は、この映画のために撮影したのか報道機関が撮影したものを流用したのかは分からないが、あのショッキングな自殺の模様が動画として撮影されていたことには驚いてしまった。
勝手にベトナム戦争時のものだと思っていたが、内戦が始まる前の出来事で、当時のベトナムで仏教徒に対する圧政に苦しんでいることへの抗議の自殺であったと知る。
それがベトナム戦争へのきっかけの一つとなったようだが、この映画を見て調べるまで、戦争への抗議だとばかり思っていたので、その勘違いを正せたことは良かったかもしれない。


8月22日(火)
シネマヴェーラ渋谷で、ルイス・ブニュエルの特集。

「乱暴者」。
腕っぷしの強さを買われ地主に雇われた用心棒が、地主の命令で団結する小作人たちに圧力をかけようとし、その中のリーダー格の老人を殺害してしまう。その後、小作人たちに追われた用心棒だったが、その老人の娘を人質に取り逃走を図ると、その娘から小作人たちの実情を話され、彼らに同情しその娘とも恋仲になる。その娘は老人を殺した犯人を知らなかったが、かつて用心棒を愛人としていた地主の妻が、その娘の父を殺害したのはその用心棒だと明かし、彼は双方から追われる立場になる…と言ったストーリー。
ブニュエルの作家性的な視点で言えば、やはりブルジョワに対しての批判的な視点はこの作品にもうかがえる。
ストーリーの中心は、様々な物事に翻弄され続けていく用心棒の男の悲劇性なのだろうな。
恐らく、自分の中にポリシーがなく単に「長いものに巻かれる」「その場の感情に流される」と言うその場しのぎで生きてきた男の悲劇、ということなのかもしれない。
彼を悲しき存在と見るのか、その場その場で流されていく滑稽な人物と取るのかで、随分と印象は変わるだろうけれども。
男が娘から小作人が置かれた立場の話を聞き改心するあたりに「情」を感じる部分もあるが、そこからハッピーエンドの物語に繋がるのではないあたりもブニュエルらしさと言えば、ブニュエルらしい皮肉は感じられる作品かもしれない。

「エル」。
敬虔なカトリック信者である主人公は、教会でミサの最中に一人の女性の足に魅力を感じ一目惚れをしてしまう。彼女には婚約者がいたが、熱烈なアピールを繰り返し、二人結婚する。祝福された結婚のように思われたが、次第に夫の嫉妬深い部分が現れ、次第にそれはエスカレートしていく。遂には彼女を殺すかのような所まで迫ると妻は逃げ出し、夫はさらに狂気へと誘われる。時が過ぎ、彼は修道院で静かに暮らし、心を入れ替えたかに思われたが…と言ったストーリー。
これはブニュエルのフィルモグラフィーの中でも傑作の部類として扱ってもいいんじゃないのかな…?
どこかサイコな面を感じさせる主人公は、他のブニュエル作品の登場人物にも通じる狂気を抱えているし、何よりも物語の始まりが「足」に対するフェティシズムであるというのも、なんともブニュエルらしい。
そういう「足」に愛情を感じてしまうという部分はありつつも、他の面では経験なクリスチャンとして教会からも認められていた男が、好きになった女性と結婚してから、徐々に隠された本性が表に出ていく様は、実際の生活でも起こりそうな事ではあるな。
主人公の男は、いわゆるDV夫とも言えるような存在で、1953年の段階でそうした人物を描いていたブニュエルには恐れ入る。
そういう「一見するとまともに見えた男が実は…」という部分は、ラストシーンにも語られていて、修道院で慎ましやかな暮らしをして「まとも」になったと思われた主人公が、まっすぐに歩くことが出来ずにジグザグに進むというのは、彼の中にまだ「狂気」が宿っていることを暗示しているとしか思えない。
映画の中では単に男がジグザグに進むだけで、何ら深い意味が語られるシーンではないのだが、映画をすべて見たあとには、あの歩き方は彼の中の「狂気」を示しているとしか思えず、こう言う表現の仕方も秀逸だなぁ…と。
そう言う「狂気」の他にも、一見敬虔な教徒のように見えた男が、実はそう言う男ではなかったというのは、教義さえ忠実に守っていればまともな人間として捉えられてしまうという宗教の歪な側面を表しているようにも見え、そう言う部分もブニュエルの巧みな観察眼が伺い知れる作品でもあるだろう。
単にブニュエルのカトリック嫌いが表に出たというだけでは語り尽くせない、宗教に横たわる強い矛盾を語っているようにも思う。


8月23日(水)
シネマヴェーラ渋谷で、ルイス・ブニュエルの特集。

「愛なき女」。
原作は、モーパッサンの「ピエールとジャン」と言う作品だと言う。
ある日、古物商を営む家の息子が父親に叱られ家出をする。山中を彷徨っていた所を一人の男に助けられ、息子はその男によって家まで送り届けられると、夫婦仲が冷めていたのもあり、妻はその男に惹かれ恋に落ちる。しかし、夫とは別れられなかった。月日が立ち、息子を助けた男の訃報と共に、その家の次男に自分の遺産をすべて託される。その後、次男は結婚をするが、その結婚相手を好きだった長男は、弟を憎むようになると、かつての母の写真を見つけ、母の不貞の事実を知る…と言ったストーリー。
ブニュエルなりの愛蔵渦巻く人間ドラマではあったのかな。
その設定だけを抜き出せば、日本で言う所の「昼メロ」的なものにも通じるドラマではあった。
最初に冷え切った夫婦関係が前提にあって、その後に妻の不倫、その結果出来た子供への遺産、夫の死、そして兄弟の諍い…と、家庭内の問題のオンパレードのようなエピソードには満ちている。
しかしながら、それをそこまで陰湿な雰囲気にならずにまとめているのは、ブニュエルの手腕なのか、メキシコと言う国民性なのか。
ブニュエル自身は気に入っていない作品で、後年この映画については語りたくないと言っていたらしいが、そこまでヒドイ出来でもなかったような(ブニュエル的な皮肉があまり見られない作品だから?)。

「スサーナ」。
少年院に入れられていた少女スサーナは、ある嵐の晩に脱獄する。彷徨っていた所を裕福な家庭の主人に助けられ、彼女はその家の家政婦として働くことになる。最初は真面目に仕事をこなしていたかに思われたスサーナだったが、次第に使用人を誘惑し、更にはその家の息子たちにも手を出し始める。更には主人にも手を伸ばし始め、妻と離縁させようと画策し始める…と言ったストーリー。
典型的な?「悪女」を描いた作品だったな。
序盤は少年院から抜け出して、地方の資産家の家に取り入られた少女を見て、「これはブニュエル版「少女モニカ」?」と思ったが、そう言う要素はありつつも、「モニカ」が突きつけていた青少年の自由とは?と言う問題に関しては何も語らず、スサーナという男たちを惑わし、自分の欲望を叶えていく「魔性の女」を描いた作品だった。
次々に男に手をかけ、自分の地位をお仕上げていくような行動を取る女と言うのは、常に居るものだなと思わされたが、その一方で簡単にスサーナにメロメロになっていく男たちのバカバカしさも描いていた作品だったようにも思う。
そう思うと、フェミニズム的な観点で男のみすぼらしさを描いた作家としてブニュエルを見てみるのも、悪くない視点ではあるのかもしれない。
この作品以外にも、男のバカバカしさ(多くは女性絡みの出来事)を描いた作品はブニュエルには結構あるように思う。

「アンダルシアの犬」。
もはや説明不要のシュルレアリスム映画の金字塔。
ブニュエルが映画監督としてのキャリアをスタートさせた最初の作品で、サルバドール・ダリとブニュエルが、自分たちが見た夢をもとに脚本を書き、映像化した作品。
シュルレアリスムの映画であるので、理路整然としたストーリーが語られるのではなく、様々なイメージの断片を寄せ集めて一つの作品に仕上げた、というようなもの。
とは言え、その他のシュルレアリスム映画と比較しても、その奔放なイメージの洪水は他の作品を寄せ付けない圧倒的な存在感を示しているし、この映画が後世に与えた影響を考えると、映画史の中でも本当にマスターピースだと思う。
やはり今見ても意味不明な部分は多いし、「ワケがわからない」映画ではあるのだけれども、それが故に映画史に刻まれている意義は大きいと思う。
そして、何と言ってもこの映画はあの「目を切り裂く」シーンであると思うが、確か大学の授業で見た時に、そのシーンで女性から「ひゃっ!」と声が上がった事が思い出される。
自分はその時は既に屠殺した牛の目を切り裂いて、そのワンカットを入れ込んだと言う「知識」があったので驚きもしなかったが、確かに始めて見たときはギョッとしたし、恐らく映画が公開された当時の人々も同じような反応をしたのだろうな、とも思う。
今ではYoutubeでも気軽に見ることが出来るが、自分が高校生の頃などはその名前は伝わってくるもなかなか見ることが出来ず、自分が作品自体を見たのは、高校を卒業する春に横浜美術館で開催された「シュルレアリスムと映画」と言う特集であった事も思い出す。

「糧なき土地」。
ブニュエルが「アンダルシアの犬」「黄金時代」を作った後に制作したドキュメンタリー作品で、彼にとって唯一のドキュメンタリーだと言う。
序盤はスペインの片田舎の風習や風景を捉え、あまり都市部では見られない地方の姿を紹介するありがちな光景をまとめているが、ナレーションでも説明されるとおり、この映画の真髄はその先、さらに都市部から離れた「陸の孤島」のような土地である。
農業もままならず、家畜も満足に育たないような土地で暮らす人々を映し出し、中には近親交配によって障害を持ち生まれてきた子供も居ることが語られたり、病気になってもろくな治療が受けられない子供が居る事も語られる。
僻地の惨状を声高に人々に訴えかけるというよりも、淡々とその土地の実情をカメラに収め、それらを一つの映像にまとめた作品になっている。
今までシュルレアリスム的な作品を作っていた人間が、淡々と事実を映し出すようなスタイルで映像を撮っていたことには驚くが、シュルレアリスム映画を撮っていたが故に、映像が人々に及ぼす影響というのも知っていたと言うのも考えられなくはない。
この映画を作った背景には、当時のフランコ政権への批判を込めて作られた部分もあったようで、ブニュエルがこの映画を作った後に上映禁止となり、更にはブニュエル自身の映画製作も禁止され、更には指名手配までされてしまう(これがメキシコ移住に繋がったとも言われる)。
英語版のwikipediaを読むと、全てがドキュメンタリーではなく「やらせ」で撮られた部分もあると言う。
それは動物が死ぬ場面で行われていて、人々の生活に関してはドキュメンタリーとして撮られているようだが。
ブニュエルが、こうした貧しい人々の生活を淡々と映し出すドキュメンタリーを撮っていたのは意外だったが、もしかするとこの映画で描かれた視点が「忘れられた人々」のような作品を生み出したのかもしれない。


8月24日(木)
U-NEXTで、崔洋一監督「性的犯罪」。
風祭ゆき主演の、崔洋一がメガホンを取った唯一のロマンポルノ。
主人公の風祭ゆきは、自動車解体業を営むちいさな工場経営者の妻。ある日スクラップする車を積んだトラックが横転し、従業員が死亡。その補償などで借金を繰り返し、会社の経営は破綻、借金取りに追われる日々。そんなある日、社長であった風祭の夫が、遺体となって発見されるが…と言ったストーリー。
崔洋一が監督したと言うことで、タイトルのイメージもあって、もう少しバイオレンスな感じかと思ったが、話の中心が借金取りの話になっていて、イマイチ監督の個性が光るような作品には思えなかった。
当時の崔監督なら、もう少しバイオレンス要素や、社会や権力からの圧力に耐えかねて爆発するような人間を描いてもいいような気もするが。
調べてみると、「十階のモスキート」に続く監督2作目の作品だと知って、監督としてのキャリアが浅かった事に加え、通常の劇映画との制作体制の違い(予算や日程、スタッフの数などなど)にも戸惑った部分もあったのかもしれない、とも想像する(恐らく脚本も日活側からあてがわれたものだったのだろうし)。
人に歴史ありと言うか、崔洋一のフィルモグラフィーの一端を見た、と言う形だけになってしまったかもしれない。


8月25日(金)
横浜のシネマ・ジャック&ベティで、林海象監督「遥かな時代の階段を」。
スクリーンで見たのは10年ぶりだったが、この映画、オープニングでは母親が川を上ってやって来て、エンディングは父親が川を流れて去っていく、と言うまさに「川が主役」のような映画だったのだな。
惜しむらくは「白い男」に戦後の横浜を象徴させるような存在として描いてくれたら、かなり奥行きのあるストーリーになったのでは?とは思ったけれども。
白い男のバックボーンに戦後の横浜が絡んでいるのは映画からも分かるのだけれど、横浜という多くの土地を米軍に接収された地域で、且つ戦争で夫を失った女性たちで米兵に体を売ることで身を立てていた人たちも多く居たことなどを考えると、白い男がそう言う横浜の裏を仕切っていたことを示してくれたら、個人的にはかなり見応えがある映画になっただろうな…と思った(若干、日活の映画「肉体の門」みたいな話だが)。
それは2023年の視点だから思うのであって、90年代には持てなかった視点だろうけど。
あと、この第二作を改めて見直すと、錠さんと星野くんの扱いがちょっと残念かな、と。
改めて見直すと、とりあえず前作との繋がりを示すために出しました的な部分は感じなくもなかった。お二人とも当時は忙しかったのだろうし、撮影スケジュールを捻出するのが大変だったとも考えられるけれども。
ちなみに第一作では、ナンチャン出演パートは少ない時間で撮影できるように出演場面とスケジュールを予め決めていた、と先日プロデューサーの古賀さんがトークショーで仰っていた。
もし、この映画が「戦後」を映し出そうとしていたなら、それこそ「肉体の門」での錠さんとの繋がりもあるし、錠さんを「戦後の横浜を知る男」として「白い男」と対比する人物として描いても良かったのではないかな、と。
もしかすると、勝手な推測だが、そう言う流れが「探偵事務所5」の最終作「THE CODE 暗号」での所長の設定に繋がっていった部分はあったのかもしれない…。
今回、比較的前方で見ていたのだが、映画全体の色のトーンが全体的に暗くない?当時撮影を担当した長田勇市さんがデジタルリマスターも監修したらしいので、あの色のトーンが一応は「正しい」のだろうけれども。
あと、この映画は三部作のカラー構成でいうと、当初は「総天然色」的な昭和30年代の日本映画のような色合いで作ろうとしていたと監督も言っていて、実際にはその頃の現像技術やフィルムが残っておらず断念せざるを得なかったらしいのだが、そう言う部分もあってか、若干色褪せたような色彩で作られていたのは印象に残った。
以前にスクリーンで見た時は、父が亡くなってから1年経つか経たないかの頃であったので、「親」と言うこの映画の一つのテーマがとても響いて、映画館の中で泣いてしまった事を思い出す。
ラストのリリーさんと茜ちゃんのシーンが、母との今生の別れに思えて、涙が止まらなかったことも思い出す。
あと、今回見直してリリーさんと白い男がダンスを踊るシーン、クリフサイドで撮られていたのね。
白い男のアジト?も根岸の馬事公苑で撮られていたし、前作よりもロケ地として「古き良き横浜」を感じさせる場所が使われていたのは、ある部分で「白い男」の存在を「港・横浜」と重ね合わせようとした部分もあったのかな。
そう考えると、今作は野毛山動物園や山下公園でのロケも行われているし、かなり「横浜要素」は盛り込まれた作品だったのだな、と改めて見て気付かされた。


8月26日(土)
BSフジで、相原裕美監督「音響ハウス Melody-Go-Round」。
東京にある音楽スタジオ、音響ハウスについてのドキュメンタリー…ではあったけれども、なんだか焦点が絞れていない感じもあり、自分には少し中途半端な印象。
このスタジオに関わったミュージシャン、スタジオのエンジニア、プロデューサーなどのインタビューと、音響スタジオで新曲をレコーディングする風景を並行して描いている作品。
この「新曲」は、この映画のために作られた曲だったのかな?そのあたりは明確に語られていなかったような気もしたが(自分が見落としただけかもしれない…)。
このドキュメンタリーで、スタジオの歴史と現在も稼働している事を伝えたかったのだろう、と言うのは分かるのだけれど、それが逆に自分にはどっちつかずの印象を生む原因となっていた。
現在も稼働しているスタジオで、新曲をレコーディングする場面に著名なミュージシャンを多数招いて、「歴史+現在」を描こうといした心意気は凄く分かる。
分かるけれども、逆にこの映画で一番伝えたいことはなんだったのか、自分には見えてこなかった。
今までスポットが当たることのなかった「音響ハウス」というスタジオに、あえてスポットを当てようという意志で作られていたのだろうか。
やはり「人」や「歴史」などが中心ではなく、「場所」をコンセプトの中心に持ってくると、どこかわかりやすい視点が無いと、この映画のように焦点が絞りきれていな印象が生まれてしまうような気はする(単に受け手である自分の問題?)
今見ると、坂本龍一のコメントや、高橋幸宏のリハーサル+レコーディング風景が撮影されている事自体が貴重なドキュメントになっているのは「撮っておいてよかったね」という気持ちは生まれる(デヴィッド・リー・ロスのコメントは唐突でよく分からなかったが…)。
そして、これがテレビドキュメンタリーではなく、映画として公開されたことで、ソフト化されて後世にも残るし、かける劇場があれば再びスクリーンで見ることが出来るというのは、「残す文化」としては意義はあることだとは思う。
この映画の中で、様々なミュージシャンがコメントしていたが、自分が一番印象に残ったのは、松任谷正隆がレコーディングがアナログからデジタルに移行した時の話で、今まで通りにキチッと音の隙間を埋めるように作っていたのに、出来上がったものを聞くと音がスカスカに聞こえたことにショックを受けた、という部分。
何がどうしてそう言う印象になったのかの検証まではされていなかったが、なんだかデジタル化されて以降の日本の音楽シーンとも重ね合わせてみると、何か象徴的なコメントのようにも思えた。
調べてみると、監督をした相原氏は元々レコーディングエンジニアとして活動し、その後にミュージックビデオを手掛けていた人らしく、この映画に感じた「伝わっってこなさ」は、自身の感覚としてわかっている事を映像の中で説明することを省いてしまっていたからなのかも…などと思ったりもした。
この監督の前作は、写真家・鋤田正義を追ったドキュメンタリー「SUKITA 刻まれたアーティストたちの一瞬」を手掛けた人だと知り、やはりあの作品は「人」に寄って構成されていたから、分かる部分も多いドキュメンタリーだったのだろう、と思えた。
映画全体の個人な感想としては、もう少し縦軸として歴史をきちんと語る部分と、横軸として関わったミュージシャンのコメントを引用してスタジオを語っていく、という形にしてくれた方が見やすかったかもしれない。
とは言え、「音」と言うのは具体性がない分、それを語るのは抽象的にならざるを得ないのかな…というのを思わされた部分はあった。

ムービープラスで、ロッキー・モートン/アナベル・ヤンケル監督「スーパーマリオ 魔界帝国の女神」。
大ヒットしたアニメ作が公開されてから「ネタとして」度々扱われているのを見て、批判するには本編をきちんと見ないからには批判も出来ないだろう…と思ったので、タイミングよく放送されていたのもあり観賞。
自分の素性を知らない異世界の王女が人間界に送られていて、彼女が秘密の力を持つ石を持っていて、その石を悪の組織に狙われる…って、なんだか「ふしぎの海のナディア」みたいだな…。
この映画が93年公開、ナディアの放送開始が90年と考えると、もしかして…というのは考えられなくはないが。
「ナディア」の企画と同じものが「天空の城ラピュタ」にも流用されたというのは有名だが、この映画に関しては「ラピュタ」と言うよりも「ナディア」に近いものを感じたな。
他の作品からの影響というと、クッパの支配する世界が、ティム・バートンの「バットマン」で描かれるゴッサムシティっぽさが少しあり、こちらも影響受けたりしていたのかなぁ…と言うのは感じなくもない。
それにしても、どこをどう間違ったら?あの「スーパーマリオ」の世界をこうも自由な発想で?展開できるのだろう…。
…というか、そもそものが主人公の名前(マリオとルイージ)と、彼らが配管工であることと、敵の名前がクッパである、と言う以上はゲームの世界とはほとんど交わらない、オリジナルな世界設定。
以前にどこかで読んだ文章に、当時はまだクリエイター側がテレビゲーム世代ではなく、ゲームの世界観を理解できるクリエイターが現れるまでは時間を要した、という指摘があったが、当時のクリエイターが必死に?ゲームの世界を映画にしようと思った結果ではあったのだろうけど…。
それんしても、あのマリオのカラフルな世界を、なんでこう言う映画に作ってしまったのかは疑問は残る。
それから「ヨッシー」呼ばれる恐竜の子供?が登場するが、出てくるだけで活躍はしないのね…。
しかし、ジュラシック・パークじゃないんだから、ヨッシーをリアルな形で登場させてどうするの…?という感じも。
それはこの映画全般にも言えて、クッパの魔力でかつて世界を治めていた王様が粘菌にされているって何よ…と言う…。
スーパーマリオの世界に現れる「キノコ」をリアルに描こうとした結果なのかもしれないが、スーパーマリオの世界をリアルに描こうとしてどうするの…?という感じ。
先程の指摘と照らし合わせるなら、マリオの世界を「バットマン」のゴッサムではなく、「ディック・トレーシー」的に作れば幾分か印象も違っただろうに…。
この映画が失敗作だとして語られるのは、マリオの世界観の本質的な部分を抜き出して実写化したのではなく、中途半端にキャラクターなどの設定を抜き出して、中途半端にリアルに描こうとした部分にあるのだろうな、と思わされた。
まぁ、単純にストーリーがありがちなものの範疇から出ておらず面白くない、と言うのも大いにあるのだろうけれども。
しかし、なんでこんな映画にデニス・ホッパー出たんだろ…まぁギャラが良かった以外に考えられないけれども…。
あと、そのデニス・ホッパーが、金髪・変な髪型・不遜な態度と、どこかドナルド・トランプを連想させる部分があり、実際にモデルにしていたのかな…?と思ったりも。
「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のビフはトランプがモデルだったというのは有名だが、もしかして当時のアメリカでは「イヤな権力者」の象徴としてトランプがポピュラーだったと言うのは考えられる。




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# by freakbeat | 2023-10-07 18:51 | Comments(0)

この夏は「バービー」(8.13-8.19)

8月13日(日)
U-NEXTで、アーヴィング・ラバー監督「アメリカ交響楽」。
ジョージ・ガーシュウィンの伝記的映画。
先日見た石原裕次郎の「嵐を呼ぶ男」で、弟の作曲家が作る曲がどこかガーシュウィン的だったので、もしかしてガーシュウィン兄弟の話が元ネタの一つでは…?と思い、この映画を見てみる。
…とは言え「嵐を呼ぶ男」に直接影響を与えたような場面はこの映画には見つけられなかったが…。
映画としては、ガーシュウィンのバイオグラフィーをかいつまんで2時間強の映画にまとめた、という感じで、それ以上もそれ以下もないような感じ。
しかも英語版のwikipediaを読むと、登場する二人の女性は架空の人物らしく、伝記的な映画でそんな改変あり?と思わざるを得なかった…。勝手に恋人を設定されたガーシュウィンの気持ちやいかに…。
とはいえガーシュウィンの様々な楽曲が楽しめる映画ではあって、初期のティン・パン・アレーの作家時代から、徐々にショーやレビューの音楽を手掛けるようになって人気を博し、更にはポピュラーとクラシックを融合させた作家として名を馳せるまでが描かれている。
今の視点で言うと、「ポギーとベス」は黒人キャストを大々的にフィーチャーした、当時としては革新的だったミュージカルとして描かれてもおかしくない場面だと思うが、この映画では「サマータイム」が歌われ、一応ステージには黒人キャストが立っているように見える場面が使われているだけで、何か意味らしい意味を持ったシーンではなかった。
1945年の映画なのもあってか、黒人キャストに関する話については全く持って語られていない映画であった。
やはり当時は黒人というのは、白人の下働きをする存在というもの以上でも以下でもなかったのだろう…。そう考えると、ミュージカルのキャストとして大々的に取り上げたガーシュウィンの先見の明には素直に驚く(その部分は映画では全く描かれてないが)。
ガーシュウィンに関して、楽曲は色々と耳にしていたものの、そのキャリアについてはほぼ知らなかったので、時系列に沿って楽曲とそれにまつわるエピソード的な部分が知れたことは良かった。
特にラスト、彼が38歳の若さで脳腫瘍を患い、腫瘍が発見された時には既に手の施しようがなく、まもなく亡くなってしまったと言うのは、今まで知らなかった。
なんだか、彼の人生が脳腫瘍によって奪われたと聞くと、同じく脳腫瘍が原因で亡くなった黒沢健一を思い出さずにはいられない。
しかも、職業作曲家としてデビューし、ヒットを飛ばして、その後に若くして亡くなってしまったというのは、健一の人生にも被る部分があり、何とも言えない気持ちにもなった。
もしかして、黒沢健一はガーシュウィンの生まれ変わりで、その生涯ももう一度ガーシュウィンをなぞっていたのでは…という思いも生まれてくる。


8月14日(月)
横浜シネマリンで、川島雄三監督「接吻泥棒」。
今回は、宝田明追悼特集の一貫で上映。川島雄三が東宝で撮った作品で、主演が宝田明、原作は石原慎太郎。
人気ボクサーである宝田明が、交通事故に巻き込まれそこで気を失った団令子演じる女子学生を助ける。口移しで水を飲ませた所を週刊誌に写真に撮られると、たちまちスキャンダルに。宝田は既に付き合ってる女性が三人いるプレーボーイで、彼女たちの間を行き来しながら、気ままな恋愛を楽しんでいる。そこに割って入る形になった団令子だが、最初は特に感じていなかった宝田の魅力に次第に引かれるようになり…と言ったストーリー。
話の内容的には、格段書くべきところなどもない、通俗的な?コメディ映画であった。
宝田明の飄々と女性の間をすり抜けていく風情をコミカルに描いている部分を楽しむような映画ではあったのかもしれない。
展開的には、この手の映画にありがちな形で、それまでに付き合っていた女性との関係は次第に相手が離れて行って、最初は主人公が邪険に扱っていた新たにその中に加わった女性に、次第に引かれて行ってハッピーエンド、という感じ…。ホント筋書きだけ抜き出すと、何も得るべき所など何もないような映画かも。
とは言え、改めて川島雄三という映画監督を意識しながら映画を見ると、この人は「動き」で演出するというよりも、「セリフ」で演出する監督かな、と。
今作では、特に序盤はのべつ幕なし登場人物が話しまくっていて、コメディであるのは分かるけれども、人の動きでスラップスティックな魅力を出すのではなく、人と人とが話していくうちにその関係性の中で可笑しさを感じていくような形式にも見えた。
「動き」という部分では、クライマックスであるボクシングの試合が、なんだかあえてそうしているのか、遠くから傍観しているような画ばかりで撮られているように見え、単にその試合を見ている観客の目線に合わせたとも考えられるけれども、先日見た井上梅次の「勝利と敗北」というボクシングをテーマにした映画では、迫力のある画の繋ぎをしていたので、その差を顕著に感じてしまった。
単に川島雄三がボクシングに興味がなく、単純に脚本にある通りに撮影して画を繋いだだけ、と言うのも考えられるけれども。
ラストシーン、宝田が行きつけの飲み屋(と言ってもボートで営業している)に行くと、そこに原作者である石原慎太郎がいて、宝田が「続きを書いて」とお願いし、石原が「ああいう女は面倒くさいよ」というようなことを言って映画が終わる。
しかも、石原慎太郎が色紙の裏に、映画のタイトルと「終」の文字を書くと、まさに「終」の文字がオーバーラップして終幕。
この場面を見て、「幕末太陽傳」で川島雄三が考えていた当初のエンディングが、フランキー堺が宿を後にして走り去っていく先が現代の東京になっていて、そこを駆け抜けていって映画が終わるというものだったというのを思い出す。
そこから思うに、結構川島雄三という人は、当時の映画監督には珍しい「メタな」視点を持っていた監督だったのではないだろうか。
どちらも、観客に現実逃避の時間を与えている中で「これはフィクションです」と強く印象付けたい気持ちがあったのではないかな、と思う。
それにしても、この映画の頃の団令子は若干丸々としていて、映画の中で「つぶれアンパン」などと酷い言われようであったが、かなり野暮ったい雰囲気だったな。
あと、自分的には新珠三千代が、こうしたコメディにも出ていたと言うのも意外ではあった。

夜、NHKの「ファミリー・ヒストリー」の草刈正雄をフィーチャーした回を見る。
たまたまテレビを付けて見始めたら、グイグイと引き込まれて、色々な箇所で泣いてしまった…。
自分が横須賀〜横浜という、基地の街・米軍に接収されていた街をルーツに持ち、もしかすると自分もこうした家族だったりするのでは…?と思った事があるので、彼の境遇やその育ちについても人一倍感情移入して見てしまった。
こうやって、芸能人として成功し、自身のルーツを辿る番組にフィーチャーされたことで、自分の血縁関係にあるアメリカの家族とも繋がれたのは、本当に幸運だな、と思う。
同じようなルーツを持っていても、こう言う手段を持たずに自分のルーツを知らないままに成長し、亡くなっていった方々もきっと多く居るのだろうし。
もしかすると、自分の周りにいる人の中にも、そう言うルーツを持っていても、他人に話すこと無く日々を暮らしている人もいるのかもしれないと思うと、自分の身近な話にも感じてしまうな。


8月15日(火)
時代劇専門チャンネルで、山田達雄監督「地獄の蟲」。
田村高廣が頭を務める盗賊団が、村人を襲い千両箱を盗み出す。追手から逃れるために旅をするが、その間に子分が川に流されたり、仲間割れをして離れていく者も現れる。そんな中、偶然であった旅人の老夫婦を手に掛けると、その笠に書かれた名前が田村高廣の親の名前であったのを見つけ、彼は激しい感情に駆られる。その後も逃げ続けていた彼らだが、遂に追手から逃れることができなくなる…と言ったストーリー。
1938年に、阪東妻三郎主演・稲垣浩監督で制作された「地獄の蟲」を79年にリメイクした作品。無声映画の配給を手掛けるマツダ映画社が設立20周年を記念して制作した映画らしい。
主演は妻三郎の息子である田村高廣が務め、オリジナルの監督を手掛けた稲垣浩は監修という立場で関わっている。
…という所まではチャンネルのインフォで知っていたが、無声映画の手法をそのまま取り入れ、音声によるセリフは一切なく、登場人物のセリフは全て字幕で処理されるというものだったのには驚いた。
効果音やBGMはつけられているものの、作りとしてはサイレント映画そのもので、これが79年の映画だと考えると、一部からはアナクロニズムと捉えられたかもしれないが、単純に言って斬新だったのでは?
そして、冒頭の出演者のクレジットを見るまで、宮下順子が出演していることを知らず、こういう少し変わった映画に出ていたことを初めて知る。
宮下順子は田村の情婦の役だったが、この宮下順子が良くてねぇ…。
79年と言うと、もうあまりロマンポルノに出演しなくなってきた時期とは言え、まだにっかつでも活躍していた頃だが、裸で勝負はしなくとも、十分に「女」を感じさせるヒロインを演じていて、かなりいい。
無声映画的な演出も相まって、表情で演技している彼女をじっくりと見る形になっていたのも功を奏した部分はあるのかも(モノクロームで見る彼女も相当良かった)。
どの程度オリジナルの作品に近づけて作られたのか分からないが、田村高廣はややサイレント映画の演技に引き摺られていた感はなくもない。
それが阪妻へのオマージュだったのか、演出の意図でそういう演技をしていたのかもしれないけれども。
ストーリーとしては、終盤の展開はちょっとよく分からない部分はあったかな…?
宮下順子に田村高廣が手をかけて殺してしまうのは、追手が迫ってくるのを察知してだったのか、映画の中で説明っぽい場面もないのでよく分からなかったし、クライマックスのチャンバラでも、恐らく最後に主人公は追手たちに殺されてしまったのだろうとは思うのだが、そう言う場面が端的に描かれていないので、ちょっと「おや?」と思ったり…。
オリジナルがどう描かれていたのか分からないが(現存はしていないらしい)、当時の日本映画だと弁士が説明をつけていたのであろうし、そう言う形でストーリーを補う部分は用意されていたのかもしれない。
この映画の音楽を手掛けたのは、すぎやまこういちだったが、クライマックスの部分でセンチメンタルな主題歌?がかかるのは、「チャンバラ映画」を期待していた自分には、余計な演出にしか見えなかったな…。
あと、「夢みるように眠りたい」の手法を取り入れて作った映画のかな?と思ったが、調べると公開はこちらの方が前だった。
そう考えると「夢みる~」の方がこの映画の手法を取り入れたのかもしれないが、「夢みる~」は単にかつての無声映画を蘇られた以上の演出がされているので、あちらはあちらで高く評価するべきだろうな、とは思う。


8月16日(水)
横浜ブルク13で、グレタ・ガーヴィグ監督「バービー」。
この映画の企画や予告編を見た時は、正直「どうなの?」と思っていたが、TBSラジオ「こねくと」の中での町山さんの映画紹介のコーナーで、この映画の話を聞いたら俄然興味を持ったので見に行く。マーゴット・ロビーは、基本的に好きな女優さんだし。
映画の細かいストーリーについては省くが、この映画は思っていた以上に、様々な意味が何層にも塗り固められていて、見る人それぞれに受け取る意味が変わってくるのでは?とも思える映画だった。
冒頭「2001年宇宙の旅」の「人類の夜明け」のパロディーで始まり、この部分は事前にネットに動画が公開されていたが、本編でもそのままオープニングとして使われていたことに驚いた。
このシーン、「2001年~」では類人猿がヒトに進化するには「道具」を使うことが必要だったというシーンで、映画の内容的にはそこにモノリスが大きく関与していたという意味もあるシーンである。
この「バービー」の中では、「母親的役割を子供時代に刷り込む役割」であったお人形遊びが、バービーの登場によって女の子たち自身の夢や理想を追求するに至った、というのを象徴的に表したシーンで、冒頭からかなり社会学的な意味合いを帯びている映画だなぁ…という印象を受けた。
冒頭でそう言う意識を植え付けられたのもあって、映画全体をそういう社会学的な視点で見てしまう事になったが、この映画に関してはそう言う見方が正解であったのだろう。
「2001年~」の映画やそこで語られた意味を理解していないと、なかなか意味不明なシーンであったが、分かっていながら見ると、これほど象徴的なオープニングは他にはない、とさえ思わせてくれるシーンだった。
今作は、マーゴット・ロビー演ずるバービーが主役であるのは間違いないのだけれども、彼女を主役たるものとして存在させたのは、やはりライアン・ゴズリング演じるケンであったことも間違いない。
ゴズリング演じるケンは、バービーランドに居た時はバービーに寄り添い愛の言葉を語りかける?だけの存在であったが、バービーと共に現実社会にやって来ると、そこでは「男性」というだけで権威を振りかざして社会を制している世界が広がっていることに気づく。
そこで彼は目覚めて?しまい、バービーランドに戻った後も、現実世界の「男性」が力を振りまく行為をひたすら繰り返し、バービーランドに居た他の「ケン」たちも、彼に感化されてバービーランドを「ケンの国」に作り替えようとする。
その表面だけをなぞって行動するケンの浅はかな部分も笑ってしまうが、そういう「浅い」事柄を繰り返してきたことで、男性が現実世界で「権力」や「権威」を振りかざして社会を支配してきた歴史と言うのも、暗に語られていたのは、ポップな演出の中に「毒」を仕込ませているなぁ…と感じる部分であった。
バービーランドで反旗を翻したケンの行動は、実際にも現実世界で男性がしている行為の反映だからねぇ…男ってバカだねぇ、浅はかだねぇ…というのをスクリーンを通して見させられて、男である自分はどこか「すいません…」と言う気持ちにさせられてしまうのであった…。
そんな中で、この映画で自分が一番印象に残ったのはケンでもバービーでもなく、「ケンの友人」と言う以外に何も与えられていない役割だったアランだった。
そんな彼であったが、バービーランドでケンが反乱?を起こして自分たちの王国を作ろうとしていた時に、そのケンたちの行動に違和感を感じて、バービーの側につく。
この映画でのアランは、ゲイでもクィアでもないように描かれていたが、彼のように「男らしさ」を強調するような世界では生きづらいと思う男性というのはいるのだよ。
まさに自分がそういった人間で、映画の中のアランの考えなどには「分かる!分かるよ、アラン!」とスクリーンを見ながら、彼に声援を送りたい気持ちにすらなった。
おそらく、この映画を見た男性の中には、自分以外にもそう思った人は大勢居たのではないかな?と想像するのだが、どうだろう?
映画の終盤で「人形だからといって現実世界を必ずしも映し出さなくてもいい」というようなセリフが出てきたが、これって最近ハリウッド映画批判でよく用いられる「ポリコレ」を必ずしも映画の中に取り込まなくてもいいんじゃない?と言うセリフに聞こえた。
映画の中で、直接ポリコレについて言っているわけではないので、これは自分の中での解釈の粋を出ないのだが、やたらとポリコレを意識して窮屈な設定の映画を作るよりは、理想を反映させて映画を作ってもいいんじゃない?という監督などの主張にも思えた。
それが故の「バービー」で、そうした理想を通して現実社会を見せることも出来る、というのを映画で示したかった部分もあったのかな、と。
映画のラスト、バービーが婦人科に行くというので映画が終わるが、あれは序盤で「性器がない」事を示していたバービーが、自分の理想を求めて「女性になった」ことを示唆していたのかな?
この映画のまとめ的に、「自分は自分らしく生きるべき」というのが最大のメッセージとして扱われていたが、あの最後は生物学的に?女性であることを受け入れて、バービーは女性になったと示唆していたのかな?
それはそれとして、この映画は色々と男性と女性とそれにまつわる社会の構造をポップな形で描いていたが、やはり何よりも「自分は自分であるべき」というのが最大のメッセージとして刻まれていたのは、一番印象に残るし、それは男性・女性に限ったことでなく、この世界に生きる人間一人一人に語りかけられたメッセージなのだな、と受け取って映画館を出た。


8月17日(木)
日本映画専門チャンネルで、サトウトシキ監督「新宿♀日記 迷い猫」。
小林政広が脚本を書いた、国映のピンク映画。
雑誌記者である平泉成が、街角に立ち客を取っていた女を取材している。そこに至る経緯を話す中で、実は彼女が夫を殺していたことが語られていく。彼女は自分が犯した罪を、記者を相手に淡々と語っていく…と言ったストーリー。
この映画は以前にGYAO!で配信されていた時に見たことがあり、その時もなかなか良かった印象のある映画。
湿り気のあるようなストーリーと対照的に、過剰な演技を削ぎ落として、登場人物が淡々とした口ぶりで話す演出のトーンが気に入った記憶がある。
この登場人物の主婦が、自分がが犯した殺人について淡々と語る部分は、どこかカミュの「異邦人」を思い起こさせた。
殺人の手段に金属バットでの撲殺を選んだ理由に、「死んでいく感覚が欲しかった。拳銃では簡単に殺せてしまう」と語る主婦の冷たい口調には、どこか狂気を感じるとともに、冷静に自分を分析する視点も持ち合わせているようにも見え、単に衝動的な殺人というわけでもないことが示される。
この辺りの感覚は、小林政広の脚本あってのことだとは思うけれど、やはりサトウトシキの演出の賜物だな、と思う。
ピンク映画なので濡れ場もあるが、この映画は「殺人」にテーマを絞れば一般映画としても十分通用するものであるようにも感じる(殺人犯が街なかの喫茶店で雑誌記者のインタビューに応えているというのは、やや突飛な設定かもしれないが)。
ピンク映画なので濡れ場はあるが、「エロさ」で言うと、その他の場面の凄惨さ故か、淡々とした演出のせいか、エロさは感じない。それがピンク映画としてはどうなのか、と聞かれると言葉に詰まる部分もあるが、一つの映画としてみると悪くない。
それにしても、この映画が公開された当時(89年)のピンク映画では、こうした「狂気」を描くことも出来ていたのだなぁ…。
なんだか最近のピンクの(と言ってもほぼOP映画のみだが)、あの生ぬるさはどうにかならないものか…。個人的な趣味の違いですかね、単に…。


8月18日(金)
シネマヴェーラ渋谷で、フリッツ・ラング監督「怪人マブぜ博士」。
「ドクトル・マブゼ」の続編。前作から数年たち、映画表現の技術が格段に上がり(前作はサイレント、本作はトーキー)なかなか見応えのある作品に仕上がっている。
前作のラストで捕まり精神錯乱を起こしたマブゼ博士だったが、刑事が新たな犯罪集団のボス的存在にマブゼの名前が使われていることを知る。警察が収監されている病院へ行くと、廃人と化したマブゼがそこに居た。マブゼを調査・研究している博士は、その犯罪組織とマブぜは無関係だと主張したが、警察の疑念は消えない。そんな中、精神病院でマブゼが死んだことが伝えられる。しかし、新たな犯罪組織には依然としてマブゼが影響力を及ぼしている事を警察は知り、更に捜査を続けていくのであった…と言ったストーリー。
今作で一番驚いたのが、1933年の段階でこうしたサイコスリラーが作られていた事だった。
前作の「ドクトル・マブゼ」も催眠術を使い人々度扇動していくマブゼ博士を悪役にしていたが、今作はマブゼが生み出した人々を惑わす洗脳術を研究していた学者が、その術を研究していく内に精神的にマブゼと同化していたというもの。
単なるサイコキラー、シリアルキラーであるならまだしも、元々は普通の精神科医が、徐々にマブぜの思想に捕らわれて行って、姉妹には自分をマブゼに同化させてしまうというのは、現代にも通じる要素であるし、なかなか怖い。
この映画はゲッペルスの怒りに触れて当時のドイツで上映禁止となったらしいが、そういう「人々を扇動し、洗脳する」存在に自分たちナチスを見出したからだろうか。
ラングのフィルモグラフィー的に言うと、「M」の次に手掛けたのが今作で、当時のラングが犯罪映画に卓越した演出能力を発揮していたことがよく分かる。
ナチスドイツが台頭せず、第二次大戦も起こらず、このままラングがドイツで監督を続けていたら…という「もしも」を考えてしまう作品でもあったな。

シネマヴェーラ渋谷で、ルイス・ブニュエル監督「のんき大将」。
主人公の男は資産家であったが、妻を失って以降の生活は酒浸りになるなど荒れている。それを見越した親戚一同が、彼が寝ている間にボロアパートに担ぎ込み、彼が眠っている間に資産が取り上げられたと嘘をつく。失意に暮れる主人公だったが、フトしたことからそれが親戚のついた嘘だと知る。そこで彼は逆にその嘘を信じていると見せかけて、親戚たちを騙そうと考え、今まで労働らしいことをしてこなかった親戚たちに働かせ始めて…と言ったストーリー。
そうした話の中に、主人公の娘の恋模様も描いていて、それが上手にストーリーに溶け込んでいて、ラストの展開に繋がるようにも作られている。
ブニュエルが、こんなにストレートなハートフルコメディを作っていたとは驚いた。
一つの嘘から始まって、主人公やその周りの人たちが、徐々に人間性を取り戻していくと言うストーリーは、往年のハリウッドコメディとしても十分に通用するストーリー。
多少ブルジョワ批判のような皮肉めいた部分があるのはブニュエルならではという気はしたが、基本的には主人公が自分が騙されたのを逆手に取って、親族に勤労の喜びを教え、娘には真実の愛を目覚めさせるという話になっていた。
しかも、それを皮肉たっぷりに描くのではなく、エンターテインメントとしてきちんと成立するストレートな人情喜劇的を描いていることに驚かされる。
どこかでこの作品を「キャプラ的」と評しているのを見たが、なるほどキャプラが作っていてもおかしくはない(もう少しキャプラの演出はスマートな気もするが)。
こうした作品があるから、単に「代表作」だけをなぞって、その作家を理解した気になるのはもったいないし、その作家の総体を見ることは出来ないのだな、と改めて気付かされた。


8月19日(土)
時代劇専門チャンネルで、松田春翠監督「阪妻 阪東妻三郎の生涯」。
文字通り、無声映画時代のスター俳優・阪東妻三郎の生涯を追ったドキュメンタリー。
この映画も、先日見た「地獄の蟲」と同じく、マツダ映画社の製作によるもの。
オーソドックスなドキュメンタリーだとも言えるが、あまり知ることのなかった阪東妻三郎について色々と知れたのは良かった。
彼が少年時代に親が事業に失敗し丁稚奉公に出ていたり、その後歌舞伎役者に弟子入りするも門閥制度の厳しい歌舞伎界で彼が成功するのは難しく、ほどなく浅草で小劇団を結成、それもすぐ解散するも京都のマキノ映画社から声がかかって、映画スターとしての彼のキャリアがスタートする。
取材と構成を映画評論家の佐藤忠男が行ったという事だが、色々な人に取材している割にはあまりそれが活かされた形には思えず、昔の映画のフッテージをふんだんに使う方に力が注がれていたのでは…?という気もする。
それは佐藤忠男が主導したのか、監督してクレジットされている松田春翠が主導したのか…?
評論や当時の雑誌の投稿などの引用なども多数あったが、そう言うものを使って、当時の阪妻を浮き彫りにするのも大事だとも思うけれども、同時代を生きた人たちの貴重な発言をもっと多く聞きたいようにも思う。おそらく当時はそう言う証言というものは、大して重視をされていなかったのだろうなぁ…。
40年以上も前に作られたドキュメンタリーに何をか言わんやだとは思うけれども、どこか「自分が見たい」ドキュメンタリーとは異なるものであったかな…。
この映画の中で、若い頃の阪妻の写真が色々出てくるが、田村高廣は結構似てるな。正和や亮はそれほど似ていないような気がする。
阪妻一家が海へ出かけた際のホームムービー?も使われていて、高廣は既に大きくなっていたが、少年時代の正和も映し出されていたのは驚き(亮のクレジットがなかったが、一番小さい子は亮か?)。

日本映画専門チャンネルで、山本嘉次郎監督「加藤隼戦闘隊」。
1944年公開の戦時中の映画で、陸軍省後援、情報局選定の映画。冒頭にそうしたクレジットが入り驚く。いわゆる国策映画。
そんな映画であるので、一応なんとなくの筋はあるものの、ドラマらしいドラマはなく、戦闘活動をする日本軍のエピソードを時系列に並べて形を作っているような映画。
もしかすると、元々の脚本にはもう少し映画的なドラマツルギーがあったのかもしれないが、もしかすると「検閲」によってスポイルされたのかもしれない。あくまで想像だけれども。
そして、「何よりもまず国策」だったのかは知らないが、スタッフクレジットはおろか、役者のクレジットすらない事には驚いてしまった。
正直、映画としては面白みはないのだが、途中で現れる飛行する戦闘機を捉えた空撮シーンはなかなか見事。
こういってはなんだが、戦闘機の飛行をなかなかカッコよく撮っていて、こうした迫力あるシーンというのがプロパガンダにも有効だったのだろうなぁ…と思ったりもした。
人がどうこうというのを無視して、単に「飛行機映画」としてみると、結構迫力がある場面は多くて目を引く…って、そう言う「目先の力」でプロパガンダは迫ってくるのだ、というのを忘れてはいけないな。
そんな実写の戦闘機の映像に混じって、所々で特撮を使用した飛行シーンが使われているが、この特撮を担当したのが円谷英二だと言う。
中盤、日本軍の戦闘機が連合国軍の基地を爆撃に行くシーンがあり、そこはなかなかの迫力。
飛行場で逃げ惑う人と爆発する倉庫との合成は、当時の技術とは思えないくらいに見事な合成をしていて驚いた。
今回、4Kリマスター版であったが、リマスターをする際に相当修正したというのでもあるまい。
Wikipediaには、この映画を「セミドキュメンタリー」と書かれていて、途中で現れる当時占領していた東南アジアの風景は、当時のドキュメントではあるのだろう。
普段日本で見ることの出来ない、そうした南国諸国の風景を見せることで、「こうした遠い地域も我が日本軍の指揮下にあるのだ」と言う部分を誇示しようと思ったのだろう。
今回鑑賞したのは、4Kデジタルリマスター版で、戦中の映画もこんなにクリアな映像になるのか!と素直に驚いたが、音の面でのリマスター感はイマイチで、登場人物のセリフが聞こえづらく、仕方ないので字幕表示で映画を見ることに…。
かつての日本映画を見ることも多いが、音の面でセリフが聞きづらい映画は多々あって、映像だけでなく音もこだわってリマスターして欲しいと望む。



# by freakbeat | 2023-10-02 21:34 | Comments(0)

夏のイベントラッシュ(8.6-8.12)

8月6日(日)
渋谷のLoft Heavenで、電影と少年のジャズライブ。
自分が生で電少のジャズライヴを見るのは3回目かな?
一度配信でも見たが、それを入れれば多分4回目。
やはり、生演奏で見る電少は、いつものライヴとは違う雰囲気があって、とても好きだ。
「ジャズ」と銘打たれているものの、ジャズっぽいリズムアレンジの曲もあるけれども、単純にピアノ+ベース+ドラムの編成で聞く電少ナンバーを楽しめる機会と考えると、なかなか貴重だし、単純に「音」としても気持ちいい。
おそらくバンドメンバーも回を重ねる内に、次第に曲にも馴染んできている部分もあるのだろう。
今回は「薔薇薔薇殺人事件」と「King Kong Doing」が良かった。あと「列車の到着」も。
帰り道に、以前のジャズライヴの音源の「列車の到着」を聞いて、その時と今日のアレンジが異なることを知る。個人的には今日のアレンジの方がより好きな感じだったな。
以前に音源化したジャズライヴから、レパートリーも増えてるし、またCD作ってくれないかな?


8月7日(月)
Youtubeに上がっていた「スナックうめ子」を見る。
TIFはすっかり行かなくなってしまったけど、オレ的なTIFはもうここだけでいいんじゃないか、とさえ思えた。
往年のメンテナンスのメンバーは殆ど出ていないけど(アプガのメンバーとか引退しちゃった子多いしな…)、なんだか不思議な?安心感はある。
うめ子のグダグダ加減は相変わらずだったが、さかっちのトーク力の冴えが以前にも増して輝いていた気はする。
ローカル局ではレギュラー持ってるようだし、松竹芸能という事務所に所属したのもあるのか、この安定感と笑いを引き出す「出し引き」のトーク能力は卓越してるなぁ…と。
今回は、風男塾の限定復帰メンバーとして、浦ちゃん(なのか浦正くんなのか)が出てきて、やっぱり自分的にはこのあたりの世代なんだよな、と実感させられる(さかっちに子育てネタ?でいじられてたのも笑えた)。
正直、身のある会話などないような時間ではあるのだが、3時間があっという間だったな。来年も一つよろしくお願いします。

U-NEXTで、黒沢直輔監督「ズームイン 暴行団地」。
宮井えりな主演のロマンポルノ。
一言で言えば「怪作」、一体なんだったのだろう…と言うのも素直な感想。
主人公の宮井えりなは、大型団地に暮らす競輪選手を夫にもつ専業主婦。夫が地方に行っている間、かつての恋人であった調律師の男の元に通い不倫関係を続けている。そんな中で彼女は見知らぬ男に襲われる。その後、その団地では女性が襲われ、火をつけられる事件が頻発。犯人の容姿と不倫相手の男が似ている事に気づいた主人公は…と言ったストーリー。
一体犯人は誰なのか、その部分はずっと明かされないので、サスペンス要素は強い映画ではあった。
とは言え、連続レイプ魔というだけでなく、なぜか襲った女性に火をつけて殺してしまうという極端な設定があり、そのせいで?この映画は突拍子もない展開が色々と起こる。
主人公を演じる宮井えりなが襲われ、終盤にその時に感じた快感が忘れられなくなっていた事が描かれていて、それはそれで分かる部分はあるのだが、そうした「もう一度」と言う主人公の気持ちと、連続レイプ魔を扱うサスペンス的な部分で映画が作られていればまだ「分かる」映画だったのだろうけど、なぜ襲った後に火をつけるのだろう?
そこにも「火」に対して異常に執着しているフェティシズムがあるのも分からなくはないが、そうした犯人のフェティッシュな部分は何も語られない。
脚本を書いたのは桂千穂であったが、よくこの脚本を映像化したよな…と黒沢監督の苦労を?思わず想像してしまった。
特にラスト近くで主人公に挨拶した妊婦が突然火に包まれる場面、いきなり人が燃えているという、画の迫力?といったものは感じなくもないが、あまりにも唐突で面食らってしまった。
あの場面は、スタントマンを使って本当に人が燃えている画を撮っていて、単にそれだけではなく、その燃やされた主婦(という設定)が助けを求めて主人公に近づく場面も描かれていて、これは相当きちんと計画して撮らないと、かなり危険な撮影だったのでは?と考えると、監督並びにスタントのスタッフの労力がしのばれる…。
この映画の謎の展開、脚本を書く方はアイデア一発で書いてしまっているのかもしれないが、それを映画として作り上げるには相当な労力はあったのだろうな…。


8月8日(火)
横浜のシネマ・ジャック&ベティで、シャルロット・ゲンズブール監督「ジェーンとシャルロット」。
感想が長くなったので、別ブログで → http://blog.livedoor.jp/magic_lantern/archives/38157251.html

色々結婚報告ラッシュだが、今日は元PASSPO☆の奈緒美さん(安斉奈緒美)が結婚の報告。
この間も思ったけれども、皆そう言う年齢になったということだよねぇ…お幸せに!


8月9日(水)
チャンネルNECOで、舛田利雄監督「嵐を呼ぶ男」。
渡哲也主演版の「嵐を呼ぶ男」。
かなり前に一度見て、あまり面白くなかった印象だったが、改めて見てもやはりあまり面白くなかった…。
基本的な話は裕次郎版と同じなのだが、藤竜也が演じる弟が、裕次郎版では作曲家を目指す青年からレーサーに変わっていたり、その他に細かい部分でも変更は加えられている模様。
序盤は裕次郎版と同じく粗野な若者がドラムスの才能を買われてのし上がっていくサクセスストーリーであったが、この渡版、中盤以降にやたらと家族の描写が増えていき、最終的にあのエンディングだと、渡は自分の成功を捨てて弟である藤竜也のレーサーとしての成功に賭けた、という形で終わっている。
そこに兄弟愛、家族愛を見出す人も居るのだろうけれども、なんだか自分にはかなりの不完全燃焼感が残る。
裕次郎版が「芸能界」についての話だったのを、この映画では差異をつけようとしたのか、「家族」の部分がクローズアップされ、それが逆に話を見えにくくしている気がする。
単純明快にエンタメ業界の浮き沈みと青年のサクセスストーリーとして描いた方が、見やすいし見ている側もスッキリする用に思えたのだけれども。
裕次郎版が57年、この渡版が66年と、10年近くの時が流れているが、その時々の映画のトレンドとして、57年版のままでは観客に受けないという判断もあったんだろうか…。裕次郎版を手掛けた井上梅次が監督した83年版(近藤真彦主演)の方も気になるな…。
ちなみに、バンドのマネージャー役に芦川いづみが出演。
今作では、彼女が次々に様々な衣装を着ていく姿を見せてくれる。そう言う部分を堪能するのには良い映画ではあった気はするな…。


8月10日(木)
ザ・バンドのロビー・ロバートソンの訃報が伝えられる。
ザ・バンドに関しては、そこまで聴き込んだグループではなかったが、一時好きでよく聞いていた。
20代の頃などは、その魅力がイマイチ分からなかったが40代になってから聞いたら、その良さが若干ながら分かった気がした。
ロビーと言うとザ・バンドの中でのメンバー間の確執は常々伝えられてはいたが、そんなメンバーたちとも一時期作り上げた作品群の素晴らしさはやはり群を抜いている。
あと「ランブル 音楽界を揺るがしたインディアンたち」という映画や、ロビーの自伝を元に作られた「ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった」というドキュメンタリーの中、彼がネイティヴ・アメリカンの血を引いていることも語られていた事も思い出す。
安らかに…。

U-NEXTで、井上梅次監督「嵐を呼ぶ男」。
渡哲也主演の「嵐を呼ぶ男」を見て、そこに若干のモヤモヤを感じたのもあり、その源流である石原裕次郎版を改めて見直す。
やはりこちらの方がスッキリとしてて見やすく面白い。
この映画にも、主人公とその弟の母親は出てくるが、渡版よりも世代間の価値観の違いという部分が明確に出ていて分かりやすい。
こう言う部分でも、当時の裕次郎ファンは彼に感情移入できるように作られていたのだなぁ…と思ったり。
やはり裕次郎は戦後世代にとっての新しいヒーローであったのだな、とこう言う部分でも実感させられる。
途中、作曲家を目指す弟が部屋でピアノを弾くシーン、どこかガーシュウィンを思わせるフレーズであったが、もしかして兄と弟で音楽業界に挑むという設定、ガーシュウィン兄弟もモチーフにある…?まぁ、気のせいだとは思うけれども…。
エンタメ業界のやり手マネージャーとなると、渡版の芦川いづみより、こちらの北原三枝の方が雰囲気あるよな…と思ったり。
調べてみると、このマネージャーは渡辺プロの渡辺美佐がモデルとして作られたらしく、なるほど…という感じ(ちなみにオープニングで登場するバンドは、渡辺プロを起こした渡辺晋のバンド、シックスジョーズが登場する)。
この映画、裕次郎のドラムの吹き替えの音は白木秀雄が担当したということだが、それがやたらとカッコいい。白木秀雄のドラムスを堪能するためだけでも、この映画を見る価値はあるかもしれない…と言うか、その価値はある。
改めて見ると裕次郎のドラムの当て振り、なかなかいい線いってて単純にかっこよく見える。一方渡の方は…比べてみるとやや残念だな…。もしかして裕次郎には楽器を演奏するセンスはあったのかもしれない。

先日から結婚報告ラッシュだったが、今日はBerryz工房の熊井ちゃん(熊井友理奈)からも結婚報告。
めでたいことだから一向に構わないのだけれども、なんでこの1~2週間でここまで続くの?というくらいの結婚発表ラッシュは、なんだか面白いというのか、なんと言えばいいのか。
まぁ、自分が見ていたアイドルさんたちが、そう言う年代に突入したと言うことなのだろうなぁ…。皆様お幸せに。

その一方で、デル・ジベットのボーカルISSAYの訃報が伝えられる。
デル・ジベットに関しては熱心に聞いていた人間ではないが、数年前に見た手塚眞の映画「ばるぼら」でその姿を見て、今でもイメージが全く変わらずにいるのは凄いな…と思ったことを思い出す。安らかに…。


8月11日(金)
シネマヴェーラ渋谷で、ルイス・ブニュエルの特集。

フリッツ・ラング監督「ドクトル・マブゼ」。ブニュエルのフェイバリット映画として特集に選ばれたという。
1部・2部合わせて4時間半という大作だったが、ラングの代表作の一つである物が見られたのは良かった。
1920年代のサイレント映画で、終盤には少し洗練された表現も登場したが、映画の殆どがオーソドックスな当時のサイレント映画の演出で、今見ると若干冗長な部分はあったかな、と。
1部と2部を見比べると、2部に入った方が幾分か映画の表現方法が洗練されていて、撮影の間にラングが映像演出の技術を上げたのか、当時の他の映画を参考にした演出をしたのか、理由は分からずともそういう変化は感じることが出来た。
英語版のwikipediaに、当時のドイツでは一部と二部は別々に公開され、一部が公開されてから1ヶ月後に二部が公開されたとあるので、それほど時間は経っていないのだけれども。
ストーリー自体はそれほど難しいものではなく、変装の名人と言われたマブぜ博士が、ドイツの国内で暗躍し、公安組織はその正体が掴めずに右往左往するが、徐々にその犯人像を捉えてきて、最後にはマブぜの正体を突き止める、といったもの。
当時、フィルム・ノワールという言葉はまだないはずだが、1920年代のドイツという、何か不穏な空気(ナチスの結党は1919年)を感じさせる時代の犯罪映画としてみると、また色々と感じる部分は大きいかもしれない。
マブゼは変装の名人として登場し、人々を欺くような存在であったが、マインドコントロールにも長けていて、人々を扇動していく場面もあり、こうした人物が第二次大戦直前のドイツで描かれていたというのは、なにか示唆的なものを感じると共に、どこか不気味なものも感じてしまう。
それは単にラングに時代を読む感覚があったのか、当時のドイツにはそういう人物が生まれでそうな空気が既にあったのか、どちらなのだろう?
ちなみにこの映画、黒澤明が選ぶ100本の中の一つという事。


8月12日(土)
渋谷Loft 9で、十束おとは生誕イベント。
おとはす本人の発言やツイッターの反応などを見ると、チケットは瞬殺だったらしく、今回のイベントのチケが取れた事は奇跡に近かったようだ。
以前、川崎のヨドバシカメラでイベントの司会をするおとはすは見に行ったのだが、今回は最初から最後まで「十束おとは」でしかないイベントであるだろうと言うのもあり、期待して出かける。
再び聴けると思っていなかったおとはすの歌あり、トークあり、質問コーナーあり、と言う形のイベント。
トークに関してはtwitchの配信での延長と言う雰囲気もあったが、ヲタクを前にして?ややテンション高めのように見えたおとはすを生で見ることが出来たのは良かった。
歌に関しては、自分の範疇外と言う感じのアニメ系?だったのだが、おとはすが歌いたい歌を歌っていたようなので、それはそれで個人イベントとしては良いのではないかな?
トークの場面で「みずいろの雨」や「フライディ・チャイナタウン」も歌いたかったけれど、今回の選からは漏れてしまった、という話も。そちらはモロに?自分の範疇なので、今後のイベントで期待したい所。
それにしても、今回のイベントで提供された「冷めたチャーハン」にはテンションを急降下させられたな…。
かなり待たされてから出された上に、チャーハンは冷めていて美味しくない…。添えられた唐揚げは温かかったので、それでチャーハンを温めてから食べる始末。
完全に店のせいで、おとはすには罪はないのだが、自分以外にもこの仕打ち?にあった人はかなり居たんじゃないかな…?
「おとはへの愛の炎で焼き上げた炒飯&唐揚げ」というネーミングだっただけに、自分のおとはすへの愛の炎が足りなかったのだろうか…。
イベント終了後のチェキタイム。次の予定があったのだが、一向にチェキ列が進まないので、スタッフさんに申し出てカットインする。
そんな状況だったので、早く会場を出ねばと言う意識が働いたのか、サクッと終わるようなポーズしか要求せず、他のヲタクが色々策を練ったのだろうな、というのとは対照的な形で終わらせてしまい、今後おとはすとチェキが撮れる機会などあるか分からないので、若干の後悔もあったが焦る気持ちの方が先に出てしまった形…。まぁ、それも仕方がない。また機会があることを祈って…。

Loft9を後にし、次のイベント会場である信濃町クエルボスへ。
信濃町と言うと、曾祖母の家があり、曾祖母が生きていた頃は、正月には親戚一同集まったものだが、曾祖母が亡くなり、その後住んでいた大叔父もその家を売ってしまった後には訪れる事などなくなった場所である。
駅に降りると、休日のこの街にふさわしくない人出で、何かと思ったら今日は神宮外苑の花火大会があるようだった。
会場に向かうと、開場の10分ほど前には着けたので、それほど急ぐことはなかったか…とも思ったけれども、あのまままったりと待っていたら、開演にも間に合うかも分からなかったので、結果的にこれで良かったのだろう。

そして、本日2つ目のイベント、信濃町クエルボスにて橋本愛奈+上々軍団、ゲストに諸塚香奈実の「3040ラプソディー」。
もろりんがゲストという事で気にはなっていたが、チケットは取らずにいた所で、はしもん結婚の知らせを聞き、即座にチケットを購入し今日に至る。
以前からはしもんと上々軍団でこのイベントをやっていたのは知っていたが、実際に来るの初めて。
イベントの内容としては、上々軍団とはしもろのコントとトーク、そしてはしもろの歌パートと全員での歌があり終了、という形。
まず最初にコントがあり、会場を結婚記者会見の場に見立てて、登壇者としてはしもん、記者にもろりんと啓太、司会はさわやか五郎という設定。
おそらく、会見というシチュエーションだけ決めて、後は全てアドリブで進んでいたのだと思うが、コントとして笑いを取るというよりも、はしもんの結婚に関しての話を聞くという要素のほうが自分の中では強かった感じもする。
とは言え、当然そういう会話の端々に笑いを入れてきていて、もろりんが「岡田ロビン翔子さんの結婚についてどう思われましたか?」と聞くと、さわごろさんが「岡田ロビンに関しては問題ないですけど、お相手のウィル・スミスについて何か言って問題になるとマズイので!」と遮って?いたのは、なんだか笑ってしまった。
そんな風にコントに仕立て上げられていたが、結婚相手について語るはしもんを見たりすると、やはり幸せなんだろうなぁ…と言う感じはしたかな。
そのコントの後は、はしもろの歌のコーナー。「旅の真ん中」やら「ラブメッセージ」やらを聞くと、他のライヴでは得られないような心の高まりを感じて、やっぱり自分の中でポッシ~チャオベラは特別だったのだな、と改めて実感した。
最近、それほど聞いていたわけでもないのに、曲がかかると自然と歌詞が口をついて出てきたりもあったのも意外であったが、自分に染み付いているのだな、という実感も。
このイベントは特典会のようなものはなかったので、はしもんに直接おめでとうの言葉を言うことは出来なかったが、会場にも暖かな雰囲気は流れていたし、はしもろの歌にもグッと来たし、思わず?チケットを取ってしまった感じはあったけれども、行けてよかったかな。


# by freakbeat | 2023-09-21 00:33 | Comments(0)


つまらない僕の日常

by あれ
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